病院薬剤師が生まれ変わる転帰~40歳が病院薬剤師としてのスタートだった僕~

平田純生(熊本大学薬学部附属育薬フロンティアセンター・臨床薬理学分野)

実は僕の学生時代の成績は最低レベル。就職したのは開院して3年目の白鷺病院という非常に小さな病院。医師は3名、病床数30くらいの腎不全専門病院、いわゆる透析病院でした。同窓会に参加するのが嫌でした。なぜなら、みんな○○大学医学部附属病院、県立○○病院、「ベッド数は300床の中小病院です」って自己紹介されると「俺はどうなるの?30床の個人病院じゃない?」って劣等感ばかり感じていました。ただしその当時はまともな透析のできる病院は珍しく、白鷺病院の透析患者数は関西で2番目に多く、透析に関してはいわゆる指導的な病院でした。

院長は研究するために病院を建てたほどの研究好きで、英語論文を読む抄読会で毎週のように論文を読まされました。その当時の僕の英語力は弱く、抄読会の前日に徹夜して訳した日本語は、「お前の訳文は日本語になっとらん」と怒られてばかりでした。

当時の病院薬剤師の仕事はつまらなかった。患者さんに薬の名前は教えない。薬効も教えない。教えていいのは飲み方だけ。PTPシートの耳(商品名の書いてある部分)をハサミで切って患者さんに薬名を知られないようにして渡していました。就職して2~3年後、カリフォルニア州ではクリニカルファーマシーなるものが実践されている、薬剤師が病棟に行って服薬指導しているらしいというニュースが入ってきましたが、「日本じゃ絶対に無理だ」と考えていました。本気で転職も考えました。薬剤師ではなく小学校教員に。僕の学年と1年先輩だけが教員免許を取れなかったので、学生時代に大学側に抗議して僕の1年後輩から復活しました。だから教員免許なし。一から教育学を勉強しましたが、小学校教員ってピアノも弾けなくっちゃいけないし、クロールで50m泳げなくっちゃいけない。結局、岡山まで行って受けた試験は不合格でした。

仕方なく薬剤師を続けていて、少しプライドがあるとすれば、医師がやらないような肉体労働の研究を仕事が終わってやってました。「透析患者の中分子量尿毒素の分析」、「透析中の血圧変動と血中カテコラミン濃度の関係」、「透析患者の微量元素と病態の関係」など、今では英語にしておけばよかったと後悔するようなよい仕事をしてました。でも研究は思ったとおりにはいかないことも多々あります。それが嫌で、辛くって、あまり研究熱心とは言えなかったと思います。

僕が30歳半ばの時、400床以上の病院では服薬指導の点数が取れる、いわゆる100点業務が始まりました。だけど当時の白鷺病院は就職した時よりは大きくなったとはいえ、90床の小さな病院。数年後、200床以上の病院でもより高い点数で服薬指導ができるようになりました。90床の白鷺病院はまだまだ。「病院が大きければ、薬剤師の能力も高いっていう評価はおかしい!」と悔しい思いをしながら、また数年後にやっと病床数の制限が撤廃された時は僕が40歳の時でした。

病棟業務を始めたのも(できるようになったのも)、薬学系の学会にはじめて参加したのも40歳、TDMを始めたのも、「薬物動態学」なる非常に難解な学問にチャレンジしたのも、40歳のときでした。この時から「夢を持って前向きに」をモットーにしていました。今までにたまっていたコンプレックスを、すべて吐き出すような勢いで仕事をしました。今までの辛い臨床研究とは違い、薬剤師の仕事をすることが臨床研究につながるなんて「こんなおいしいことはない」と思いました。薬剤師が好きで好きでたまらなくなりました。患者さんのところに行くのが楽しくてたまらない。医師とディスカッションするのがたまらないほど面白いのです。仕事に夢中になれるって、本当に幸せだなぁと思うようになりました。

決して競って学会発表していたわけではありません。薬局内の勉強会で疑問に残ったテーマ、解決できていない問題症例を何とか文献検索して、あるいは薬剤師同志で話し合って、あるいは医師やナースなどと話し合って疑問を解決したいと思うのは、プロの薬剤師として当然のことだと考えるようになっていました。解決できていない薬の問題点や症例に対する疑問点に全精力を注いで解決し、一定の結論が得られれば、それがポジティブデータであっても、ネガティブデータであっても学会発表、論文投稿という形で報告することによって完結させました。

そのうち僕は病院に寝泊まりし、夜2時まで文献を書き、朝の8時半に起きて病棟に行き、9時から5時までは薬局で仕事し、残務が終わるのが夜7時くらい。それからは自由です。毎日夜2時まで論文を読んだりデータ整理したり。40歳の時に書いた初めての薬学系の論文が1報、1年後には2報、2年後には4報、3年後には8報、それ以後はずっと総説なども含めて1年で30報くらいの論文をまとめています。服薬指導を始めて数年後で、数冊の本を書き、たった5年後の1999年には日本腎臓病薬物療法学会の前身である「関西腎と薬剤研究会」を立ち上げることができました。

学会でフロアーや座長から質問していただくことによって、あるいは文献投稿時にレフェリーに批判していただくことによって薬剤師として、そして臨床研究者として一歩一歩ステップアップしていくものだと思います。「私はちゃんと学会発表していますよ」なんて、ポスター発表程度で満足していませんか?ステップアップするための階段はまだまだありますよ。とはいえ薬剤師が成長して一人前になることは決して容易ではありません。結局、少しずつステップアップするしかないのですが・・・。

薬剤科内の症例検討会→院内の症例検討会(薬剤師も医師の症例検討会に参加して、症例報告させてもらうべきです)→地方の学会発表→全国レベルの学会発表→文献投稿→国際学会で発表→英語論文の投稿→国際的に認められた一流紙への投稿、このように、どんな環境の病院薬剤師でも成長する余地はまだまだあると思います。一段一段上がるごとに薬剤師として大きく成長しているのが自分で体感でき、数年前の自分がどんなに低いところにとどまっていたかがわかると思います。

勉強はちゃんとしていても、学会でちゃんと講演を聞いていても、実践しないあなたは高い山を見上げているだけ。見上げているだけでは全然、頂上には近づかないのです。周りの人が登り出さないのなら、あなた自身がステップを踏み出してみてください。学会で質問されることや、文献投稿時にレフェリーに批判されるのを恐れてはいけません。辛抱強くやれば、いい仕事はきっと評価されます。リサーチマインドのない薬剤師の集まりでは他の医療スタッフから評価されるはずはありませんし、社会的評価も得られません。それよりも問題なのは患者さんが薬剤師の存在によって当然、受けられるべき恩恵が受けられないことです。「私だってできるのです(Yes, I can.)」、あなたのこの考え方が”Yes, we can”の輪になって広がってゆけば病院薬剤師全体に活気がみなぎることは間違いないと思う今日この頃です。

 

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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