2020年6月

多くの人から、何かにチャレンジするときに、気持ちが続かないと聞きますが、それは、心の底から、おもしろがらないからじゃないでしょうか。夢を持つ人生は、持たない人生の何倍も楽しい。一回しかない人生、いくつになっても挑戦していきたい。(毛利衛)

 好きでもないけど重要なことに対して頑張り続けることはつらいので、挫折することもよくあります。こんな時に夢を持つことの大切さを心に刻んでくれ、好きになり興味を持ったことは一生懸命できるよと励ましてくれたのが宇宙飛行士の毛利衛氏の一言でした。このころから好きになる、面白くなるための努力も必要と感じるようになりました。

人生を変えるきっかけっていうものは、日常茶飯事のいろいろなところに転がっていると思うんです。転がっているのに気付くか、気付かないか。気付いたときに取るのか、取らないのか。(向井千秋)

 同じく宇宙飛行士で医師の向井千秋氏。日本人女性初の宇宙飛行士のこの言葉も勇気づけてくれました。宇宙飛行士になるという通常では実現しにくい夢を実現するためには、夢に見るだけではなく、行動することが大切なんだなと思い知らせてくれました。

If you have a dream, you can do it. 夢を持ったその時点で、あなたの夢の大半は達成できている。 (ウォルト・ディズニー)

 この言葉は僕が若いころから心の中に刻んできた名言なのですが誰が言った言葉かよくわからなかったので、調べてみるとウォルト・ディズニーが言った名言でした。
 人は一人では生きてゆけない。今のあなたはあなたの両親、学生時代の先生、幼なじみ、学生時代の親友の影響を受けて、今のあなたに至っている。今、優れている人は今まであなたが生きてきた人生の中で、すばらしい人々のよい影響を受け、そして自分自身が伸びようと努力したから今の優れたあなたがある。しかし伸びようとする努力をなくせばあなたの成長はそこで止まってしまう。あなたがこれからも伸びようと努力する限り、あなたは伸び続けられる。だから目標を高く持ちましょうと考えるようになりました。

これを知るもの、これを好むものに如(し)かず、これを好むもの、これを楽しむものに如かず (孔子)

 知っている人も好きでやっている人には及ばない。好きでやってる人も楽しんでやっている人には及ばないということです。僕はこの言葉を励みに「凡人でも夢中になれば天才に勝てる。要するにオタクになれば天才に勝てるのだが、天才でオタクには勝てない。これは仕方ない。」と頑張ってきました。やっぱり「夜中まで夢中になって頑張って仕事している奴には勝てないや」ということは仕事でも勉強でも趣味でもよくあることです。努力はつらい、好きになればいいんだ。だけど少しだけ好きになる努力はしてみようと思っています。だけど努力する大切さを説いた人もいます。
 課長になることを目標にすればあなたは課長になれます。しかし部長にはなれないでしょう。夢は大きく持ちましょう。博士号をとろうとすればとれます。こつは仕事を好きになる努力をすること。好きになれば天才にも勝てます。好きになり、楽しめるようになればあなたの夢はすべて叶うでしょう。逆に、夢を持たない限り夢は実現できないのです。

自分が本当に好きなこと、自分にとって本当に大切なものを見つけてください。見つかったら本当に大切にしたいもののために努力してください。君たちは、その時、努力したい何かを持っているから、それは君たちの心のこもった立派な仕事になるでしょう。(黒澤明監督の晩年1993年に公開された「まあだだよ」で主人公の百聞先生が子供達に向けていった言葉)

 この名言は映画のワンシーンで先生が学生たちに向けて送ったことばです。


成せばなる 成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり(上杉鷹山)
最大の名誉は決して倒れないことではない。倒れるたびに起き上がることである(孔子)

~努力することの大切さ~
 今まで、自分自身の考え方、アイデンティティを見いだせないで苦しんでいた若いころ、どうやって生きてゆけばいいのだろうと思い悩んで、自分のノートに書きためておいた言葉があります。まずは努力することの重要性を唱える名言は勇気を与えてくれました。あきらめよう、楽をしようとする自分を叱咤激励し、頑張らせてくれました。

最近の若い人に「この仕事は僕にはできない」といわれることがよくある。しかし人間の能力ははかり知れない。できないと思ったらできないが、できると思ってやればできないこともできる。できると思わなければ何もできない。人間の歴史はかつてできないと思ったことを次々可能にしてきた歴史だ。(白川秀樹)

 この名言は2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹先生の言葉をテレビで見て感動し、夢中で自分のノートにわかりやすく書き記したものです。白川先生の名言集では「若い人はもっと挑戦の精神を持つことが大切だ」に近いかなと思います。

努力した人が成功するとは限らない。しかし成功した人はすべて努力している(プロレスラー 長州力)

 プロレス好きだった僕はこんな言葉にも影響を受けました。

一番の才能は”何かをすごく好きになる”こと。だからとことん努力できる。(馳浩)

 熊本赤十字病院の下石和樹先生がこの長州力氏の言葉を好きだとおっしゃっていましたが、偶然ですが僕も大好きな言葉で、名言だと思います。もう1つ、プロレスラーで今は政治家で文部大臣も務めた馳浩氏の言葉(僕のメモによれば馳浩氏だったと思いますが検索しても出てきません)も好きでした

滅私奉公はもう古い。時代は変わったんだ。ホンダに入った以上、会社のためとか、上役のためとかそんな古い意識はきれいさっぱり捨ててもらいたい。君らは自分のために働けば良いのだ。自分の仕事が楽しくなり、打ち込めるようになれば、結局は会社も大きくなり、みんなの生活も向上するのだ。農耕民族型の「長いものにはまかれろ」はやめよう。素直に物を見ろ。自分の考えに固執するな。駄目と思ったら即、方向転換しろ。(本田宗一郎)

~努力だけではつらいが好きなことだとつらくない~
 努力するっていうことは本音からいうと、つらいことかもしれません。自分の好きなことを一生懸命やればいいんだといってくれたのが以下に示す本田宗一郎氏の名言です。本田氏は尋常小学校を出た後、自動車修理工場に丁稚奉公して戦後に本田技術研究所を設立しました。僕の考え方を「努力」から「夢を持って楽しいことに一生懸命やろう」、そして「嫌なことだったらやめてもいいんだ」と方向転換させてくれた言葉です。


英語論文を読んでみよう
 自分らしいオリジナルの意見を持てない人に自分のアイデンティティを持つためのアドバイスですが、前述のように交友関係を広げることだけでなく広い範囲の読書をすることもとてもいいことです。でも薬剤師であれば、若い時にこそ、自分を高めるためのもう一度、薬物動態、薬理、病態について勉強してみませんか?26534867_s.jpg若いうちに英語論文を読んでみませんか?英会話を始めてみませんか?勉強会や講演会で気の利いた質問はその講演会のテーマに関する原著論文を読んでいると10個くらいの質問は出てくるはずです。決してメディカルトリビューン、日経メディカル、M3comやメーカーのWebサイトから専門家の意見を見ただけで受け売りするだけではいけません。これらの情報を得られることは非常に良いことですが、自分の専門分野に関しては自分なりの考えを持ちたいですね。そのためには自分で原著論文にあたってGoogle翻訳などを使わずに独力で訳してみましょう。
 自慢するわけではありませんが、僕は国際学会に行って自分の専門分野である腎臓病の薬物療法やTDMなどに関する英語の講演はほぼ100%理解できます。でも実際には僕は英字新聞も読めないし、CNNニュースも難しいし、英会話能力も深いディスカッションは苦手ですが、論文だけはたくさん読んできたから読めるし、講演もスライドや図表があれば日本語と変わらないくらいに理解できます。そして英語で質問も一応できるようになりました。そのようになったきっかけは僕が24歳のとき、初めて中分子尿毒素について学会発表するとき、ドクターたちから何を聞かれるかがとても怖くて、発表内容に関する英語論文20個くらいをすべて取り寄せて、毎日読み始めたことです。最初はほとんどの単語が分からなくて、そのたびに辞書を引いていましたので、仕事が終わって初めて23時になっても1つの論文すら訳し終わらなかったのが、2本目は半分の時間で済み、3本目は1/4の時間で済み、1週間たったころには辞書なしで楽に訳せるようになったのです。これって半減期の理論(半減期×4~5倍で薬物濃度はほぼゼロに近くなる=あきらめずにやり続ければ労力がゼロ近くになる)と同じで、この快感・達成感は今も忘れません。これ以降、僕はMedline検索、インターネットが発達してからは自分の体験した副作用や患者さんの薬物療法の最適化についてPubMed検索で解決することが多くなりました。そうすると何が新しくて、何が既にやられている仕事かが分かり、原著論文を書けるかの判断もでき、臨床で生かしたことを題材に次々と論文にすることができました。

夢を持とう、主体性をもって自分のゴールを目指そう
 20200623_1.png現在は病院薬剤師にも保険薬局薬剤師にも薬剤師としての活動の場が広がりつつあります。若い人たち、若くなくても活躍の場を経験したことのなかった人たちにも、主体的に動ける自己を作って高いゴールを目指してもらいたいです。小さな一歩からで構いません。勉強会で勇気を振り絞って質問してみよう。10分のプレゼンを頼まれたら、チャンスと思って全力を注いでみよう。それがユニークで好評であれば、30分の講演の依頼がいつかやって来ます。そして全国的な研究会や学会でプレゼンする機会ももらえます。当然この前後で原著論文を書けるようになっているはずです。夢は大きく持ちましょう。ゴールは高く掲げましょう。国際学会で発表し、英語論文を書けば、博士号も転がり込むように取れます。
 僕の場合、薬学・医学とは関係ない本を読む読書も好きでした。そしてその中に書かれてある自分を高めてくれる言葉、名言を自分ノートに書き綴る習慣をつけていました。自分自身の将来を俯瞰的に見ることのない不器用な僕にとって、そういった名言が、横道にそれることなく、自分を高め、自己を確立するに至ったような気がします。そして小さなことではつぶれない強い自分になれたような気がします。次回はさまざまな名言を心の糧にして自分を高めることについてブログに書きたいと思っています。



ゴールを設定することができなかった僕の若いころ20200622_1.png
 皆さんはどんな薬剤師になりたいですか?目標はできるだけ高く持った方が高いゴールに近づけると思います。僕の場合、30歳まではつまらない調剤ばかり、服薬指導もできず悶々として薬剤師を本気でやめようと思ったこともありました。あまり夢中になることはできなかったけれど、仕事が終わってからの「血漿中の中分子尿毒素の測定、透析患者の血漿カテコラミン濃度の測定、透析患者の血漿セレンや亜鉛などの微量元素の測定」などの臨床研究で何とかプライドを保っていました。薬剤師としては調剤しかできないフラストレーションがたまっていた状況から解放され、100床以下の小病院でも薬剤管理指導業務が算定できるようになったのが39歳の時ですから、僕は40歳という遅咲きの病棟デビューから薬剤師としての臨床の本当の面白さを知りました。でもその当時の僕には将来の人生を俯瞰できるような高い能力はありませんでした。ただいい薬剤師、高い能力を持った薬剤師になりたかっただけです。だから本を書けたり、博士号を取ったり、教授になったり、学会の理事長や副理事長を務めるなんて目標は全く持っていなかったのです。人生を俯瞰する能力、そしてゴールを設定することができれば、これまでの道のりはもっと楽になっていたかもしれません。でも無我夢中でも前進することができれば、能力がアップすることは確かだし、途中で道に迷ったことも人を成長させてくれるかもしれません。

チャンスは誰にでもある
 薬剤師として全くと言っていいほど活躍できていなかった若いころの僕の前にもいろんなチャンスがありました。それはたまたま僕がラッキーだったからではなく、誰にもあるはずだと思います。院内勉強会やメーカーの方がやってくれる新薬説明会や適応拡大の説明会などもチャンスの1つだと思っています。そういった勉強会で他人が気付かないような意見を言う、説明会でメーカーの人に鋭い質問をする、自分を高めるために気の利いた質問をすることだけでも自分の能力を上げるチャンスだと思っています。そして気の利いた質問であれば院長だけでなく、他のドクターたちも自分の能力を認めてくれるチャンスに変わります。そういった積み重ねがいつか職場でプレゼンをさせてもらうチャンスになるかもしれません。
 11190496_s.jpg今僕はI&H株式会社で毎朝、朝礼に参加していますが、朝礼の担当者は毎日変わります。声が通って、はきはきと話せる人、テキストに書いてあるありきたりのこと以外の自分の感じた一言を聞くと「この人、優れているな」と名前と顔を覚えようと思います。ほんの短いプレゼンでも「できる人」「できない人」の評価(この評価が絶対的とは思いませんが、すぐれていると思われた方が得ですよね)が分かれてしまうのです。だから人前で話をする機会をもらったら、それは大きなチャンスをもらったと思い、どうしたらわかりやすく話させるか、うまく伝わるか、他人と違った独自の自分らしさをアピールするかを準備する必要があります。主体性があるかないかはこんな短いプレゼンだけでも感じ取ることができます。

交友関係も大切
 いつか職場で学会発表などの機会を与えてもらえるかもしれません。そして各地の腎と薬剤研究会や薬剤師会、病院薬剤師会などの講演会で気の利いた質問をしたりすると注目され、いずれ10分程度のプレゼンをさせてもらうチャンスもあると思います。そして院内の勉強会でも外部の勉強会でもなんらかの交友関係が生まれます。自分にとって指導者がいなければ、こんな交友関係からメンターを見つけるのもよい方法かもしれません(僕はドラッグフォーラムオーサカというコアな勉強会に参加することで、上野和行先生というメンターを見つけました。これについてはドラッグフォーラムオーサカの思い出を参照)。でもすべてをメンターにゆだねるのは大学の学生まで。卒業してからは1人の大人としてアイデンティティをもって自分らしさを発揮してもらいたい。これらの勉強会を通じて生まれた知識だけでなく、勉強会後の飲み会での優れた薬剤師と討論したシナジー効果によって、自分1人では解明できなかった部分が交友関係で聞くことのできた一言で一気に解明されることってよくありました。ジグソーパズルの端っこが埋まれば一気に作品完成に近づくのによく似ています。だから勉強会後の飲み会に参加してあこがれの薬剤師と同席してディスカッションできることは自分を高める良いチャンスと思っています。


実績

  熊大のホームページで紹介していた実績・学会発表ですが、2017年までで改訂できていませんでした。今回、直近のものまで含めて改訂しました。出版した本、受賞論文、受賞発表およびこの年に何があったかなども載せています。熊本大学定年退職前に奇しくも論文数、学会発表ともにやっと500を越えました。

 

 【 実  績 】(論文、出版物)
 
 ※詳細はこちら ⇒ 実績.pdf

 

 【 学会発表 】
  ※詳細はこちら ⇒ 学会発表.pdf

 

 

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5位プロレスの神様・カールゴッチを生で見た
 1972年10月、僕が高校生で17歳の時、広島県立体育館で創設間もない新日本プロレスに来日し、セミファイナルの登場したプロレスの神様ことカールゴッチを見た。テレビがついていなかったために、観客動員も少なく、新日本プロレスが最も苦しかったころです。20200616_5.jpg対戦相手は多分、山本小鉄だったような、藤原善明だったか・・・・、記憶がないです。でも最後の決め技はもちろんジャーマンスープレックスホールド(原爆固め)だったことを鮮明に覚えています。その時のメインイベントはアントニオ猪木対覆面レスラーのレッドピンパネール(正体はニュージーランド人のアベヤコブで必殺技はキウイロール)とゴッチから奪ったばかりのチャンピオンベルトをかけた世界選手権の初防衛戦。話題にはなっていませんでしたが名勝負でした。ちなみにカールゴッチは猪木だけでなく、藤原善明、前田日明、高田延彦、船木誠勝などのUWF系のレスラーを育てた名コーチでもあり、練習でもゴッチから1本を取れる日本人レスラーは全くいなかったくらい強かったそうです。

4位ポールサイモンのコンサートとS&Gのコンサートの両方に行った
 音楽好きで特にビートルズのジョージハリソンとサイモンとガーファンクルが大好きだった僕。1973年、大学に入学して間もない19歳の時、大阪フェスティバルホールでポールサイモンのソロコンサートに行き、20200616_4.jpg1982年、28歳の時に大阪球場でサイモン&ガーファンクルを生で見ました。両方見た人はあまりいないと思います。ちなみに一緒に行った人はどちらも男の友達でした。大阪球場は音も悪く遠かった。はるかに見えるポールサイモンとアートガーファンクル。隣で見ていた女性は最初から最後まで泣きじゃくっていました。深い思い出があったのでしょうね・・・・・。

3位マーチンのギターを買った
 かぐや姫・風の正やんこと伊勢正三に憧れて大学4年から始めたギター。3年後にはギター小僧ならよく知っている難曲「アンジー」を弾けるようになった。25歳の誕生日に憧れのマーチンHD28を買った。ヘリンボーンデザインが気に入って定価40万円のところを32万円で衝動買いしました。51歳の時、熊本に行く前に置き場がないため10万円で売却しましたが、使いすぎてフレットはすり減り、ネックは曲がり、修理しても10万円以上はかかったので仕方ないかも・・・・。20200616_3.jpg低音の鳴りの良いギターでしたが、僕の持っているギターで生涯最高のギターは27歳の時に買った10万円足らずのK.ヤイリの特注品で低音も高音もバランスよく鳴るので今も持っています。このほかにもギルドの生ギター、グレッチのエレキ、カスガのフラットマンドリンと5弦バンジョーなども持っていました。ギターがうまいというより単なるコレクターだったかも?

2位「江夏の21球」を生で見た
 生粋のカープファンだった僕。1975年にセリーグ初優勝を遂げましたが、日本一にはなっていませんでした。1979年25歳の時は大阪球場でパリーグの覇者、近鉄バファローズと日本一をかけて戦いました。この年の日程は土日に大阪球場、火水木が広島市民球場でしたが、大阪球場での第1戦、第2戦は負け、広島で奇跡の3連勝をして大阪に帰ってきたカープは第6戦にも負けました。最終戦の大阪球場第7戦に行って伝説の「江夏の21球」を生で見ました。小雨が降る中、7回表を終了した時点でカープが4対3でリードしていました。7回裏からリリーフエースの江夏が登板。これで優勝は決まったものと誰もが信じ、9回裏には3塁側のカープ応援団から紙テープ2個を両手に持って歓喜の時を待っていましたが、江夏は先頭打者に不用意に投げた初球をセンターにはじき返され、代走は超俊足の藤瀬。次打者アーノルドの時に2塁に盗塁を仕掛けたが、キャッチャー水沼の投じた球をショートの高橋義彦が取れず、センターに転がる間に藤瀬は3塁に。アーノルドを敬遠すると近鉄・西本監督はこれも俊足の吹石を代走にする積極策。江夏は次打者にも敬遠気味の四球を与え満塁策を取り、ノーアウト満塁に。絶体絶命!ここで西本監督の性格としてはめったにやらないスクイズを慣行し、俊足の藤瀬がホームに突っ込む。20200616_2.jpgこのとき江夏はカーブの握りのままバントできないウエストボールを投げ、ホームに突っ込んできた藤瀬を三本間に挟み水沼がタッチ。江夏はその後の打者も三振に取ってカープ初の日本一に。この時の日本シリーズ近鉄戦は大阪での試合4試合とも見ましたが、僕が見た試合はカープの3連敗。広島で3連勝して最後の試合でした。ちなみに西本監督はリーグ優勝8回もしながら1度も日本1になったことがないため、「悲運の名将」と呼ばれました。

1位 何と言ってもこの1冊! 入院しても書いた初の著作「透析患者への投薬ガイドブック」
 40歳でようやく92床の白鷺病院でも薬剤管理指導料が算定できるようになり、大病院の薬剤師とは6年も遅れて服薬指導を開始し、同時にTDMのできる薬物は何でも測定(とはいっても15種類くらい)するようになり、大阪でTDMを実施している病院の中で一番小さな病院の白鷺病院が一挙にTDMではトップに立ち、府病薬の新人研修でのTDMの講義も担うようになりました。彗星のごとく現れた白鷺病院の平田純生・和泉 智のコンビは、のちに他病院でくすぶっていた古久保拓をスカウトし、病院薬剤師の間で一挙に注目を浴びるようになりました。1998年、僕が44歳の時から月間薬事に「透析患者の薬物投与設計」の隔月連載を始めました。第1回目の連載のテーマは「プロプラノロールとアテノロールの違いからADMEを知ろう」は物理化学的性質と薬物動態の特性が関係していることをわかりやすく説明した名著だと評価していただけることが多かったのですが、この当時は「こんなこと、だれも言っていないけど書いていいのかしら?」と大いに悩んだものでした。20200616_1.jpg
 連載のストレスが響いたのか、その年の9月に不明熱が続き、食欲不振で65kgの体重が57kgに減少し、全身がかゆくなって診察してもらったらCRPが10近くになっており、原発性胆汁性肝硬変か原発性胆汁性胆管炎の疑いで即、白鷺病院に入院となりました。原因は不明ですがおそらく胆道系の感染症だったのでしょう。安静にしていると10日くらいで退院できましたが、入院中も連載は続くため、夜中に病室を抜け出して薬局のパソコンで原稿を書いていたら、看護師に見つかってしまい、病室に監禁されたこともありました。その連載が終わって刊行されたのが、じほう(当時は薬業時報社)から刊行された「透析患者への投薬ガイドブック 透析と薬物療法、投与設計へのアプローチ」です。自分自身の仕事が評価されるのは論文(特に英語論文)か著作ですが、僕にとって初の著作になる記念すべき1冊になりました。


 あまり自慢できるようなネタを持っていない僕ですが、今回は少しオタクっぽい貴重な体験について話したいと思います。65年間生きてきて、これは実にいい体験をしたと感じたことを10個だけ、紹介したいと思います。題して「貴重な体験ベスト10」です!

10位 ピート・ローズを生で見た
 1985年、国際人工臓器学会の休暇日にMLB最多試合出場記録・最多安打記録を持ち、当時シンシナティレッズからフィラデルフィア・フィリーズに移籍してい20200615_10.jpgたハッスルプレーヤーのピートローズをペンシルベニア州のシチズンズ・バンク・パークで生で見た。この当時のピートローズは引退前で打率も3割打てていなかったが、登場するだけでものすごい声援だった。ただしこの人、のちに監督在任中に野球賭博に関わったとして、メジャーリーグから永久追放処分を受け、メジャー最多記録の4256安打をイチローが日米通算ながら抜いた時も「日本の記録とメジャーを足すことに意味はあるのか。高校時代の安打も加えることと同じだ」と言い捨てた。最近は違法のコルクバットを使っていたなどあまりいい噂はない。

9位 鉄人カル・リプケンとイチローを生で見た
 2001年ワシントンDCで開催された国際TDM学会の休暇日に、電車で約1時間のボルチモアのオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ球場(写真:打者はイチローですが小さすぎて見えない)で引退する最後の20200615_9.png年のオリオールズ一筋のカル・リプケンを僕のメンターの田中先生・上野先生と一緒に見ました。リプケンは広島カープの衣笠祥雄の持つ連続試合出場記録2215を破った名選手で8243イニング連続出場や903試合連続フルイニング出場した名プレーヤーです。その時の相手はイチローの所属するシアトル・マリナーズでした。ちなみにイチローは5打数3安打1盗塁の大活躍。現役最後の年のカル・リプケンが登場するとものすごいスタンディングオベーションでした。本当はメジャーリーグで活躍するイチローを見にボルチモアまで行ったのですが、この時はリプケン人気に圧倒されました。

8位 田中広輔の幻の本塁打を生で見た。2015年、カープは4位だったけど本当はAクラスだった!
 2015年9月12日、僕が60歳で1998年以来、毎年Bクラスのカープが何年振りかでAクラスに進出し、クライマックスシリーズに出場できるかどうかの運命の1戦が甲子園球場で行われた阪神・広島戦。延長12回表、広島の田中広輔の大飛球は中堅フェンス際で大きく跳ね返ってグラウンドに戻ったように見えた。実は僕はこのフェンスの左後ろ約10mの距離で見ていたのだ。20200615_8.jpg
 甲子園の若いファンはたちが悪い。だからグラウンドに飛び出さないよう、電車の荷物置きのようなネット(いわゆるネズミ返し)がフェンスの真下に取り付けられているのだ。それに当たって、普通はレフトスタンドに入るはずが、なんと跳ね返ってグラウンドに戻っちゃった。実は僕はこの瞬間、ボールから目を離していた。だけど隣で見ていた長男はちゃんと見ていた。「あれは絶対に入っていた。ビデオ判定や!」。だけじゃない。前にいる阪神ファンも後ろにいる阪神ファンも「あれは絶対入ってたで」と言っている。案の定、ビデオ判定。だけど審判団はビデオ判定でフェンスを越えていないと判定。「なんでだよ~!ウソだろう!」
 この判定はのちに正式に誤審と認められる。この1勝があればカープは楽にクライマックスシリーズに行けたのに・・・・・・。詳細はこのブログのカテゴリ「嗚呼!愛しの広島カープ」の 「2015年、カープ観戦記~泣くな大瀬良、来年は君がエースだ! ~」を参照してください。

7位 天谷のスーパーキャッチを生で見た20200615_7.jpg
 2010年8月22日、55歳の時、場所はマツダスタジアム。横浜の外人ハーバーのホームランをセンターの天谷宗一郎が1.8mのフェンスに駆け上がってスーパーキャッチしたのをマツダスタジアムで生で見ました。これ以前に同じ年に赤松が同じ横浜の4番村田のホームランをスーパーキャッチし、全米でスパイダーマンと騒がれて話題になりました。2010年に天谷・赤松が見せてくれたスパイダーキャッチはこれ以前にもこれ以降にもやった選手はいません。ちなみに打たれたピッチャーはどちらも齊藤悠葵投手でした。

6位 William Bennet先生と電話で話した
 2005年オレゴン留学中の52歳の時、ベネットブック(元祖・腎機能別薬用量一覧の本でアメリカではどんな薬剤部、どんな薬局にも必ず置いてある本、Drug Prescribing in Renal Failure)の著者として有名なBennet先生と電話で会話しました。この時にはシカゴ生まれのWilliam Bennett先生は大のホワイトソックス好きで、日本からやってきた井口資仁選手のことをべた褒めしていました。だけど同じポートランドに住んでいながら、生のベネット先生とお会いできなかったのは本当に残念でした。ちなみにベネット先生はすでに引退され、現在のベネットブックはGeorge Aronoff 先生が編集を担当しています。なぜ僕がオレゴン州立大学に留学したのかというとなぜか腎臓に詳しい薬剤師がたくさんいたから。渡米してその理由を知りました。その薬剤師たちはベネット先生の弟子だったのですね。

腎機能別薬剤投与量POCKETBOOK 第3版 2020年6月29日 発売予定です!

●腎機能に応じた最適な薬剤投与量を導く、
  日本腎臓病薬物療法学会のデータブック待望の第3版

 腎機能低下患者及び透析患者への薬物治療では、用法・用量の調節を考慮しなければならない(または禁忌)薬剤が多数存在し、適切な投与設計が医療者に求められます。本書では、 現在市販されている薬剤の腎機能別推奨投与量を、GFR又はCCr5mL/min刻みの一覧表で掲載しており、「患者に投与したい薬剤・処方された薬剤は果たして減量が必要なのか」「腎機能に応じた至適用量はどのくらいか」が一目でわかります。
 掲載医薬品情報は2,000を超え、前版よりも大幅に情報量が増えました。さらに、減量法についても最新の知見を踏まえ記載内容を精査しています。持ち運び便利な小型サイズで、ポケットに入れておけば、臨床現場で強力な助っ人になること間違いなしの1冊です!

熊大の教授になれたなんて夢のようなこと
 大阪での薬剤師のころの経験から熊大薬学部に来ることができて、学生たちにいつも言っていたことは「処方箋を書く医師は薬物動態と相互作用に関しては医学部ではほとんど教えられていないのだから、薬剤師がカバーすべき。そのために薬剤師の存在価値がある。でももっと根本にかえって考えてみると、もっと本当に大切なものがある。薬剤師は医療者なんだよ。医療者に共通して絶対に必要なものは優しさと愛じゃないですか?僕は薬剤師として頑張って有効で安全な薬物療法を提供し、患者さんの不安を取り除くことによって患者さんに感謝され、他の医療スタッフからも感謝され信頼される。医療者の魅力はボランティアのような仕事をして、しかも給料をいただける。それはそれはありがたい仕事じゃないですか?」と。でも信頼されるようになるにはそれなりの力も必要だ。患者さんを助けたいという気持ち、患者さんのために何とかしてあげたいという気持ち、その熱意と優しさが、薬剤師としての力をつけたいというモチベーションに繋がるのではないかと思うようになった。20200605.jpg
 熊大で、よく講義中に話題を変えると、元の話題に戻れなくなり、「さっき僕は何について話してたっけ?」と学生に問うことがある。これは年を取ってボケたんじゃない。以前から頭が悪かった、特に記憶力は飛び切り悪かっただけのこと。まだまだ他人に劣ることはいっぱいある。未完成の自分、足らないことだらけだ。
 いやなこともそりゃ人間だから、たくさんあるが、それ以上にやりたいことがあるってことは本当に素敵なことだと思う。でも学会の理事長になり、大学の教授になり、僕にとっては雲の上の人のような方ばかりと付き合えるようになって、強い戸惑いを感じることが多々あります。
 いつも思うことはまだまだ僕は足らないことだらけの欠陥人間だなということ。いまだに英会話の勉強をしないとレベルが保てないし、統計も病態も薬理学も動態も勉強し直さないとどんどん進歩する薬物療法についていけなくなってくる。新薬についても勉強しなくては・・・・。ああ若いときにもっと勉強していたらなぁって、後悔することばかりの今日この頃です。

神戸に転居して
 2020年3月、新型コロナウイルス騒ぎの中、熊大を定年退職し、4月から本社が芦屋のI&H株式会社(阪神調剤グループ)から声をかけていたき、神戸に住むようになった。心機一転、保険薬局で頑張っている薬剤師さんをいっぱい見つけて、将来の薬剤師としての夢について語り合いたい。関西地区でも「平田塾」を開催してみたい。20200605_2.jpgまだまだいろんな本を書いてみたい。どんどん学会発表して、論文もかけるような力のある薬剤師を育ててみたい。体はいたって元気いっぱいなので、老け込むことないし、65歳になっても夢をもって仕事を続けられるってことは、とても幸せだとつくづく思う。あ~薬剤師になってよかった!


僕はエリートじゃない。
 前から何度か言ったことがあるかもしれないけれど、小学校の時の成績はひどかった。4年生になるまで3人に1人は取れるはずの「良い」の評価が1つもなかった。いつも先生の話すスピードが速いため、理解力がついて行けなかった。割り算のやり方がさっぱり理解できなくてトラウマになったこともあった。何をやっても遅い、運動も何をやっても全くダメな生徒ということでいつも名指しで担任にいじられた。そのせいか給食で食べるスピードを上げることに熱中し、1~2番に食べるのが早かった。こんなことでしか1番になることができなかったのだが、今にして思えば、この早食い癖は健康には良くないなと思う。ただ僕は子供のころ、よく妄想するのが好きだった。すごい発明家になる妄想、総理大臣とディベートする妄想、それと夢中になると寝食を忘れて熱中する子供だった。
 でも中学に入り丁寧に教えてくれる先生の成績は良くなった。クラス40人中23番だった1年生の1学期から徐々に10番内に入り、卒業時には5番内に入るようになり、小学校の時には普通科に入れるとは思いもしなかったが、一応進学校の普通科の高校に入れた。今思うとそんなに一流校ではないが小学校の時には僕にとってはあこがれの高校だった。同級生たちは「小学校のころからひどい成績だった平田が何で合格したの?」と不思議がっていた。15430928_s.jpg
 中学校や高校では運動音痴の僕にとってクラスマッチは本当に嫌だった。「平田のせいで負けた」とは言われなくても、そんな視線を感じて殻に閉じこもり、女子生徒とは全く話ができない、人前では全く話ができない、とても暗い高校生活だった。

大阪に来て20歳になって自分の考えを持てるようにはなった
 暗かった広島時代から大阪薬科大学に入学して大阪で下宿生活を始めるといろんな友達ができたし、先輩たちにもかわいがってもらった。でも19歳までは葛藤、苦しみ、自己否定、悩みだらけの情けない毎日だった。このころ人生について考えるようになって高野悦子の「20歳の原点」などの本をたくさん読んだ。自分のオリジナルの考え方を全く表現できない子供だったが、先輩や友人の助言をもらって自分自身の考え、自分自身の個性、独自性、アイデンティティが芽生え始めたのは20歳の時。

100床以下の個人病院で埋もれていた誰も知らない20年近くの薬剤師時代
 それ以来の平田の考え方は65歳になった今でも基本的には成長していないと思う。一個人としては物忘れがひどく、よく失くし物をし、全く運動神経がなく、方向音痴の頼りない人間でしかない。ただ好きでい続けること、少年のように夢中であり続けたこと。誰かの影響で「何かを始めなくっちゃ」と思うようになってドキドキワクワクすることがあると熱中する性格だった。いわゆるオタクです。40歳になってやっとわかったことは熱中すると集中力が出ることだ。いつもは出ない能力がその集中力のおかげで出せるようになる。15457686_s.jpg
 誰もが時がたてば仕事には慣れる。そして時間がたてばある程度の技量も身につく。でも人並外れて伸びる人になれるかなれないかは「何のためにやっている」かを理解できているかどうかの違いだと思う。僕の場合、40歳になって「目の前の患者さんのために」と思ってやると本当に重要な仕事をやっているのだと思えるようになって、かけがえのないものに対して集中することができるようになった。やっと自分自身の考えによってかけがえのないもの、つまり「薬剤師という仕事」に夢中になれたことが自分自身の宝になった。ただこのようにして年月を積みかさねることによって成長しているように見えているだけかもしれないが・・・。本当の大人になるのに20年もかかった。
 やらなかったことで後悔することはすごくたくさんあるが、やったことに対して後悔したことはほとんどない。トライして失敗したことに対する後悔よりもやらなかったことによる後悔の方がはるかに悔しいと思う。


プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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