5位プロレスの神様・カールゴッチを生で見た
1972年10月、僕が高校生で17歳の時、広島県立体育館で創設間もない新日本プロレスに来日し、セミファイナルの登場したプロレスの神様ことカールゴッチを見た。テレビがついていなかったために、観客動員も少なく、新日本プロレスが最も苦しかったころです。対戦相手は多分、山本小鉄だったような、藤原善明だったか・・・・、記憶がないです。でも最後の決め技はもちろんジャーマンスープレックスホールド(原爆固め)だったことを鮮明に覚えています。その時のメインイベントはアントニオ猪木対覆面レスラーのレッドピンパネール(正体はニュージーランド人のアベヤコブで必殺技はキウイロール)とゴッチから奪ったばかりのチャンピオンベルトをかけた世界選手権の初防衛戦。話題にはなっていませんでしたが名勝負でした。ちなみにカールゴッチは猪木だけでなく、藤原善明、前田日明、高田延彦、船木誠勝などのUWF系のレスラーを育てた名コーチでもあり、練習でもゴッチから1本を取れる日本人レスラーは全くいなかったくらい強かったそうです。
4位ポールサイモンのコンサートとS&Gのコンサートの両方に行った
音楽好きで特にビートルズのジョージハリソンとサイモンとガーファンクルが大好きだった僕。1973年、大学に入学して間もない19歳の時、大阪フェスティバルホールでポールサイモンのソロコンサートに行き、1982年、28歳の時に大阪球場でサイモン&ガーファンクルを生で見ました。両方見た人はあまりいないと思います。ちなみに一緒に行った人はどちらも男の友達でした。大阪球場は音も悪く遠かった。はるかに見えるポールサイモンとアートガーファンクル。隣で見ていた女性は最初から最後まで泣きじゃくっていました。深い思い出があったのでしょうね・・・・・。
3位マーチンのギターを買った
かぐや姫・風の正やんこと伊勢正三に憧れて大学4年から始めたギター。3年後にはギター小僧ならよく知っている難曲「アンジー」を弾けるようになった。25歳の誕生日に憧れのマーチンHD28を買った。ヘリンボーンデザインが気に入って定価40万円のところを32万円で衝動買いしました。51歳の時、熊本に行く前に置き場がないため10万円で売却しましたが、使いすぎてフレットはすり減り、ネックは曲がり、修理しても10万円以上はかかったので仕方ないかも・・・・。低音の鳴りの良いギターでしたが、僕の持っているギターで生涯最高のギターは27歳の時に買った10万円足らずのK.ヤイリの特注品で低音も高音もバランスよく鳴るので今も持っています。このほかにもギルドの生ギター、グレッチのエレキ、カスガのフラットマンドリンと5弦バンジョーなども持っていました。ギターがうまいというより単なるコレクターだったかも?
2位「江夏の21球」を生で見た
生粋のカープファンだった僕。1975年にセリーグ初優勝を遂げましたが、日本一にはなっていませんでした。1979年25歳の時は大阪球場でパリーグの覇者、近鉄バファローズと日本一をかけて戦いました。この年の日程は土日に大阪球場、火水木が広島市民球場でしたが、大阪球場での第1戦、第2戦は負け、広島で奇跡の3連勝をして大阪に帰ってきたカープは第6戦にも負けました。最終戦の大阪球場第7戦に行って伝説の「江夏の21球」を生で見ました。小雨が降る中、7回表を終了した時点でカープが4対3でリードしていました。7回裏からリリーフエースの江夏が登板。これで優勝は決まったものと誰もが信じ、9回裏には3塁側のカープ応援団から紙テープ2個を両手に持って歓喜の時を待っていましたが、江夏は先頭打者に不用意に投げた初球をセンターにはじき返され、代走は超俊足の藤瀬。次打者アーノルドの時に2塁に盗塁を仕掛けたが、キャッチャー水沼の投じた球をショートの高橋義彦が取れず、センターに転がる間に藤瀬は3塁に。アーノルドを敬遠すると近鉄・西本監督はこれも俊足の吹石を代走にする積極策。江夏は次打者にも敬遠気味の四球を与え満塁策を取り、ノーアウト満塁に。絶体絶命!ここで西本監督の性格としてはめったにやらないスクイズを慣行し、俊足の藤瀬がホームに突っ込む。このとき江夏はカーブの握りのままバントできないウエストボールを投げ、ホームに突っ込んできた藤瀬を三本間に挟み水沼がタッチ。江夏はその後の打者も三振に取ってカープ初の日本一に。この時の日本シリーズ近鉄戦は大阪での試合4試合とも見ましたが、僕が見た試合はカープの3連敗。広島で3連勝して最後の試合でした。ちなみに西本監督はリーグ優勝8回もしながら1度も日本1になったことがないため、「悲運の名将」と呼ばれました。
1位 何と言ってもこの1冊! 入院しても書いた初の著作「透析患者への投薬ガイドブック」
40歳でようやく92床の白鷺病院でも薬剤管理指導料が算定できるようになり、大病院の薬剤師とは6年も遅れて服薬指導を開始し、同時にTDMのできる薬物は何でも測定(とはいっても15種類くらい)するようになり、大阪でTDMを実施している病院の中で一番小さな病院の白鷺病院が一挙にTDMではトップに立ち、府病薬の新人研修でのTDMの講義も担うようになりました。彗星のごとく現れた白鷺病院の平田純生・和泉 智のコンビは、のちに他病院でくすぶっていた古久保拓をスカウトし、病院薬剤師の間で一挙に注目を浴びるようになりました。1998年、僕が44歳の時から月間薬事に「透析患者の薬物投与設計」の隔月連載を始めました。第1回目の連載のテーマは「プロプラノロールとアテノロールの違いからADMEを知ろう」は物理化学的性質と薬物動態の特性が関係していることをわかりやすく説明した名著だと評価していただけることが多かったのですが、この当時は「こんなこと、だれも言っていないけど書いていいのかしら?」と大いに悩んだものでした。
連載のストレスが響いたのか、その年の9月に不明熱が続き、食欲不振で65kgの体重が57kgに減少し、全身がかゆくなって診察してもらったらCRPが10近くになっており、原発性胆汁性肝硬変か原発性胆汁性胆管炎の疑いで即、白鷺病院に入院となりました。原因は不明ですがおそらく胆道系の感染症だったのでしょう。安静にしていると10日くらいで退院できましたが、入院中も連載は続くため、夜中に病室を抜け出して薬局のパソコンで原稿を書いていたら、看護師に見つかってしまい、病室に監禁されたこともありました。その連載が終わって刊行されたのが、じほう(当時は薬業時報社)から刊行された「透析患者への投薬ガイドブック 透析と薬物療法、投与設計へのアプローチ」です。自分自身の仕事が評価されるのは論文(特に英語論文)か著作ですが、僕にとって初の著作になる記念すべき1冊になりました。