2024年1月

カヤオ港から乗ってきたフォルクローレバンド、バルパライソから乗ってきたカラカス市民オーケストラ

 1月23日からペルーの伝統音楽フォルクローレのバンドのロス・チョロスの4人組がカヤオ港から乗船し、次の寄港地チリのバルパライソまで1回30分のコンサートを2回ずつ、3日間行いました。フォルクローレを知らない人でも「花まつり」やサイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」は知っていると思います。ケーナという葦笛(実は葦ではなく竹らしい)、サンポーニャ、チャランゴ(クルーズ船旅日記⑥参照)、ギター、ボンボという太鼓などを使う郷愁を感じる心に染み入る音楽を聞かせてくれました(写真1-3)。僕は高音で8~10弦の小さな弦楽器、チャランゴの音色が大好きになりました。僕が学生時代、サイモンとガーファンクルの影響で

流行ったフォルクローレに憧れて、ケーナを買いましたが、1曲もマスターできませんでした。僕が20歳代になると、カントリーやブルーブラスにも憧れてバンジョーやフラットマンドリンも買いましたが、弾けるようになったのはどちらも4~5曲のみです。でも今でもチャランゴの音色に似たマンドリンは持っています。僕がもっと若かったら、チャランゴを買っていたと思います。ロス・チョロスの4人組は次の寄港地、チリのバルパライソで下船しました。

 そして、新たに乗船したのが、ベネズエラのカラカス市民オーケストラのメンバーです。指揮者と弦楽四重奏にドラムが加わった珍しい組み合わせです。この中からベルリンフィルに行く人もいるという若い実力者たち。ヨーロッパから入ったクラシックに南米独自の音楽が組み合わさった素晴らしいコンサートで、最後は日本の「ふるさと」「花は咲く」を演奏すると大歓声でした(写真4)。

 

チリのバルパライソへ寄港

 1月25日、あいにく、天気は霧雨です。チリのバルパライソに入港しましたが、先に我々よりも大きなクルーズ船バイキングジュピター号が停泊していました(写真5)。バルパライソはパナマ運河ができる前には南米大陸の最南端からアフリカに向かう途中には必ず立ち寄る港でしたので南米最大の都市として栄えました。バルは谷、パライソは天国を意味するので、「天国の谷」という意味ですね。オプショナルツアーには申し込まず、港から20~30分歩いてコンセプシオンの丘に行ってカラフルな街並み、ストリートアート(写真6)を見ながら散策し、丘を下るとソトマヨール

(チリの英雄らしいです)広場(写真7)に出ますので、そこでのフリーマーケットをのんびりと見学して、新しい茶色のハンチング帽(キャスケットキャップ)を6ドルで買って船に帰りました。天気はずっと曇りから霧雨でしたが、晴れていると、きっともっともっと素晴らしい風景だったんだろうなと思いました。

 

 

 

中間発表会~文化祭のようなもの~

 1月27日はクラブ活動のような社交ダンス教室、サルサ、ジルバなどのダンス系はステージで、ぼくのやっている透明水彩画などの教室の中間発表会がありました。ダンスの苦手な僕はダンス系には一切参加していませんが、妻はサルサで参加しました(写真8)。僕は今までに描いた水彩画を展示しました(写真9, 10)。なんか高校の文化祭みたいですね。

 塚本・平田のコンビ(写真11)でのコンサートも1月22日にはみんなで歌える「東へ西へ」「あの素晴らしい愛をもう1度」「遠い世界に」などの1970年前後の日本の歌(やはりピースボートの客は僕よりも高齢者が多いので)を中心に40分の2回目の単独コンサート、27日には「アコギでビートルズ」と題して、すべてビートルズナンバーばかりの45分の3回目の単独コンサートを行いました(写真12。僕が師匠と呼んでいる塚本さんは楽譜なし(歌詞もコードもフレーズも全部覚えている!)でリードギターを弾きながら(信じられないフレーズを唄いながら間違えずに弾けるのです!)、リードボーカルができるすごい方なのです。僕はビートルズのコーラス部分

とサイドギターという楽な役割なので、司会とマネージャー役も務めています。「アコギでビートルズ」は大盛況でした。なぜかというと、ビートルズの歌詞はすべて英語なので、僕たちのプログラムは日本人だけではなく英語の堪能な中華圏・韓国の方々も来ていただいたので超満員でした。Eight days a weekやA hard day’s nightをリクエストされましたが、うちの師匠は「抱きしめたい」や「She loves you」などのあんまり軽い曲はやらないのです。。最後は演奏する予定のなかったGet backやYellow submarineの大合唱で終わりました。

 

カヤオ港を出てから風邪が蔓延

 カヤオ港に出てから、水彩画教室に行くと半分以上の方がいない、そして楽器演奏広場も閑散としています。クスコからマチュピチュのツアーで皆さん、疲れてしまったのと、船が南下するとともに寒くなるのと同時に、波も強く、晴れの日はほとんどないので僕たち夫婦を含め、多くの人が風邪をひいてしまいました。でもこれがこのあたりの普通の気候らしいのです。デッキに出ても強い寒風でギターなんか弾いてられませんし、デッキの周りを歩く人たちの姿も少なくなりました。この気候と船の揺れはしばらく続くそうですが、船は南米大陸をさらに南下し、1月30日にはチリの南端でパタゴニアの中心都市プンタアレナス、2月2日はアルゼンチンの最南端のウシュアイアに寄港し、その後、南米大陸の東海岸に行く予定です。

 

 ピースボート最大の難点はオプショナルツアーの代金が高いこと。僕は前回にも書いたように旗を持った日本人ツアーガイドについていく多人数のツアーは日本から出てきた意味がないように思えて、あまり好きじゃないのです。だって1日にピースボートから600人が旗を持ってマチュピチュに行くなんて、想像してみてください。最近の僕と妻の旅のスタイルは1つの都市に1週間程度は滞在して、現地の人たちが本当にいいと言っているところに行くことです。ハンガリーでは多国籍の人たちとワイナリーツアーを楽しんだし、ニュージーランドのクライストチャーチではレンタカー(旧英国領なので右ハンドル)を借りてテカポ湖、プカキ湖からマウントクックまで旅をしました。オーストラリアのケアンズでは夜行性生物の観察や馬に乗って川を渡って大自然を満喫できるツアー、ホワイトウォーターラフティング(日本での急流下り)にも参加しましたが、すべて英語ツアーです。いろんな国の人たちと会話するのはとても楽しいです。日本語ツアーガイドは数が少ないのでどうしても多人数のツアーになりがちなのが問題だと思います。

 

カヤオ港周辺はとっても危険な街

 ピースボートが停泊しているカヤオ港の港湾地区から外に出るには無料のシャトルバスに乗る必要があります。そうやって首都のリマ市内に入ることができますが、バスから降りると、多くのタクシーが待っています。ペルーのタクシー代はメーター制ではなく、交渉しなければなりませんが、カヤオからリマのホルヘ・チャベス空港までの距離は7.6kmで、車で15分と聞いていますので、ペルーの物価から考えると10ドルもあれば十分なはずです。ただしタクシーの運転手は前もって話し合っているのか、どのドライバーも最初はカヤオからリマ市内に行くのに40ドルを要求しますので、「高すぎる!」というとタヒチと同じく30ドルの30のことをタクシードライバーたちは「ターティ」と発音します。それでも高いと思ったので「20ドル」でまとまりましたが、やっぱり高いです。ただしリマ市内は交通渋滞がひどく、空港に着くには30分かかりました。

 後で聞いた話ですが、カヤオの港湾地区で日本人男性が殴打されて持っていたバッグに入っていたすべての現金(船内の各部屋には金庫があるのにそこに現金を入れず、すべてを持参していたらしい)、そして6人の人たち(日本人男性5人と女性1人)が襲われ、ナイフで切られスマホも取られたそうです。南米やアフリカの治安は悪いことは知っていましたが、スリやひったくりではなく、まさに強盗や殺人もあって、日本人は特に狙われやすいのだから怖いです。ピースボートが停泊している港湾地区はスラム街と密接しており、危なっかしい雰囲気です。ほぼ1800人のお金を持った人たちがやってくるのだから、強盗たちは格好の獲物が来たと考えているのでしょう。襲われたというニュースは船内でも流れたものの、詳しくは知らされていませんが、お金だけならいいけど、海外でパスポートやスマホを盗られたら大変です。カヤオでの窃盗はピースボートの乗客だけで13人の被害者が出たそうです。

 僕自身、昨年の6月に学会で訪れたローマの満員の地下鉄内でバッグの中に入れていたパスポートやクレジットカード、現金の入った盗難防止用のケースを盗まれて(おそらく車内で複数人数の窃盗団が気づかないようにバッグのジッパーを開けて鋭利なナイフを使って瞬時に切り取ったのでしょう)、警察へ届け、日本大使館に行き、パスポートの再発行をお願いし(これには戸籍謄本が必要ですので、大阪にいる次男にすぐに写メを取って送ってもらいました)、クレジットカード会社に電話連絡して機能停止させなくちゃならないという大変な苦労をしましたが・・・・。

 前もってカヤオやリマは危険と知っていたので、僕は金持ちらしい格好はせず、楽天市場で買った500円のT シャツ、ユニクロの雨除けジャケット、腕時計は1500円のカシオ、現金は2万円分程度のドル紙幣だけという姿で空港まで行きました(写真1)。でもクスコやマチュピチュであったペルー人はみんないい人ばかりでした。たぶん、貧困が原因なんだろうなと思っています。

 

標高3400mのクスコの高山病対策~ダイアモックスの予防効果~

 マチュピチュに行くために経由するクスコの標高は3400mと富士山山頂よりもやや低い程度なので、急激にSpO2が90%以下になり(表1)、平地では酸素吸入が必要となる状態と判断されてICUで監視される重症の状態になるので、結構辛いのです。せっかく持ってきたパルスオキシメータを妻が船内に置いてきたため、測定ができませんでした、残念!

 高山病は重症になると、高地脳浮腫や高地肺水腫などを発症することもあり、意外と怖いので(実際に帰船してから多くの人が高山病に罹ったと聞きました)、水分をこまめに摂って脱水を防ぎ、炭酸脱水酵素阻害薬ダイアモックス(アセタゾラミド)250mgをクスコに行く前日から1日2回服用して高山病を予防しました。炭酸脱水酵素を阻害すると、水素イオンの尿中排泄を阻害しNaイオンが再吸収されず利尿作用をもち、アルカリ尿が排泄されるので、血中の血液pHが下がり、これが呼吸中枢を刺激して(脳血管を拡張して呼吸中枢を刺激するという説もある)、換気量が増大することによって高山病予防効果があるとされています。高地に行く1~2日前から内服することで高山病予防効果があるというされています。ダイアモックスは炭酸脱水酵素阻害作用ではなく水チャンネルに結合してその機能を阻害するメカニズム(Aquaporin-1とAquaporin-4を阻害する)によって脳浮腫や肺水腫などの高山病症状の治療薬になるというメカニズムも想定されています。

 ダイアモックスのジェネリックはリマの国際空港でも売っていました。Boticaというのがいわゆる薬店のことみたいです(写真2)。ピースボートのメンバーが高山病の心配をしていたので薬剤師の僕が購入の仕方、服用法を教えてあげました。僕たち夫婦は昨日からダイアモックスを1日2錠飲んでいたので安心していますが、さすがにクスコに着くと体がなんか変でした。浮遊感が半端ないのです。水を飲む、深呼吸をして、アルコールは取らない、大食いはしないなどの高山病対策をしてなんとか過ごすことができました。

 

クスコは美しい街並みでペルー料理を堪能

 クスコはかつてエクアドルからチリまで続く栄華を誇ったインカ帝国の首都でした。今までにいろんな都市を見ましたが、これまでで一番印象に残る古い街並みに感動しました(写真3)。山のさらに高いところまで家が建ち並び(写真4)、路上に

はセーターやお菓子、飲料などの行商の人たちがたくさんいます。僕たちはセーターを2着買いました。最初は2着で45ドルといわれましたが、「30ドルにして」とお願いし、33ドルで交渉成立。お土産では1着20ドルするTシャツが普通にありますが、セーター2着で33ドルですからかなりお得です。夜のクスコは高地なので気温が10℃以下になってしまうため、早速着てみました(写真5)。有名な12角形の石(写真6)や夜景を楽しみながら食べるペルー料理は最高でした(写真7,8)。

 

マチュピチュへの旅程

 マチュピチュに行くには1月18日にカヤオ港からリマのホルヘ・チャベス国際空港空港に行き、飛行機でインカ帝国の首都だったクスコに行かねばなりません。クスコのホテルでは19日の朝5時半に朝食を済ませ、6時に迎えに来てくれる運転手を待って、車で90分走って駅に行き、標高3400mのクスコから列車(写真9,10)でウルバンバ川沿いを90分下って標高2400mのマチュピチュ村に行き、それからさらにバスで急勾配を上がって遺跡に着きます(写真11、12)。マチュピチュはクスコよりも1000m低いので高山病に似た症状はほとんどの人で消失します。そしてマチュピチュ遺跡を観光する1日目はマチュピチュ村のホテルで宿泊し、20日の朝もマチュピチュ遺跡を見て、クスコに帰って同じホテルに宿泊し、21日に再び飛行機でリマに帰ってピースボートに合流します。

 

ついにマチュピチュへ行くことができた

 ピースボートのマチュピチュへのオプショナルツアーは1人50万円以上と、とても高いのでリマからクスコへの飛行機(1人往復で19,000円)、クスコでの宿泊(2泊で1人15,653円)、マチュピチュツアー(2日間のマチュピチュ遺跡見学と英語ツアーガイド+クスコからマチュピチュへの往復交通+マチュピチュ村のホテル1泊付きで1人115,000円)は前もって自分でネット予約しました。そうすると1/3以下の価格でマチュピチュ遺跡に2日間行けますが英語ガイドになります。今回の通訳は自称インカ人の血を引くウォルターさん(写真13)で彼の話す英語はとても分かりやすく100%理解できました。神戸に来てから毎日DMM英会話(オンライン英会話でフィリピン、アフリカ、セルビアなどの旧ユーゴスラビア、中米などの世界中の人々と1対1で会話できますが、英米豪などのネイティブと英語の達者な日本人教師は価格が2倍以上になる)25分×2コマをやってきて、英会話力がかなり戻ってきたのだと思います。

 空中都市マチュピチュが作られたのは1450年ころ、インカ帝国の皇帝の離宮であったとされますが、1532年にインカ帝国は鉄砲を持った200人足らずのスペインのピサロによって征服され、1572年には最後の王もスペイン人に殺されスペイン植民地になってしまいます。インカには鉄器ではなくブロンズ製のものしかなく、武器は石斧、投石器、投げ槍(槍先は石)、弓矢しかなかったので、鉄砲、鉄器を持ったピサロの群には全く敵わなかったようです。でもインカの人々が亡くなった原因は殺されたのではなく、多くは疫病(天然痘など)で、一説によると9割前後が伝染病によって亡くなったそうです。これはアメリカインディアンも同じですね。最盛期の人口が1万人だったマチュピチュも1536年から人口は減って1540年には人が住まなくなったのですが、スペインの侵略後も発見されないまま、1911年にイエール大学の考古学者ハイラム・ビンガム(インディ・ジョーンズのモデル)によって発見されました。300年以上経過しても浸食されることなくマチュピチュがほぼ完全な姿で残ったのは、石でできた上水道と雨水などの排水などの灌漑装置がしっかりしていたからではないかと思いました。だってこの上水道と雨水を別々に分けるシステムは今でもうまく機能しているのですから(2日目は雨だったので確認できました: 写真14)。

 ペルーの伝統的な音楽のフォルクローレでサイモンとガーファンクルが歌ってヒットした有名な「コンドルは飛んでいく」という曲がありますが、僕はこれまでにコンドルが飛んでいるのを見たことがないので、ウォルターに「コンドルはいないの?」と聞くと、「マチュピチュにいるリャマを崖からあんたが突き落とせば、リャマは死ぬ。そうするとコンドルを見れるよ。コンドルは生きた動物は襲わずに死んだ動物をエサにして生きているんだから。ほかにも危険な動物はアナコンダやピューマなんかもいるよ」とユーモアたっぷりに教えてくれました。

 

運動会狂想曲

 タヒチ島を後にしてマチュピチュに行くための寄港地、南米大陸のペルーのカヤオ港まではやはり1週間近くを要します。ピースボートの乗客は1800人、日本人は1200人で中国語圏のシンガポール、台湾、中国本土、それから韓国人、欧米人が残りの600人です。この中に200名くらいでしょうか、各国の20歳代の若い人たちが中心になって運動会の実行委員会が結成され、彼らは朝早くから、深夜まで運動会のために働きます。以前にも書いたように僕たちが学生時代の学園祭実行委員会と同じですね。乗客を誕生月によって赤団、青団、黄団、緑団の4団に分かれて競います。もちろん国籍や年齢で別れることはありません。僕は9月生まれなので、1月、5月、9月生まれの人が属する黄団に入り、黄色のTシャツを着て、黄色の細い布を首にかけるか鉢巻きにして参加します(写真1)。僕の出場種目は綱引きです。運動会は1月15日に開催されましたが、それまでに様々な種目の練習をしたり、応援の練習をしたり、盛り上げようとたくさんの乗客に参加を呼び掛けたりで、若い人たち、ご苦労様です。

 運動会の日は、あいにく曇りで、強風でいつ雨が降ってもおかしくない中、奇跡的に雨が降らず、朝8時半に集合し、開会式が行われました。あとで学んだことですが、赤道に近い南半球でしかも季節からいうと夏なのに涼しいのはペルー海峡という寒流のためだそうで、このため紀元前に作られたペルーのナスカの地上絵がいまだに残っているのも曇っているけど雨が降らないため、ペルーの海岸の近くが砂漠化しているからだそうです。

 アナウンスはいつもの通り、日本語、英語、中文、ハングルの4か国語で行われ、国境を越えて4つの団が競うのです。参加者全員が集まって行う全体写真撮影会、開会式、体操、○×ゲーム、応援合戦(これも審査対象になります:写真2)、大縄跳び、障害物リレー、綱引き(写真3,4)、玉入れ、玉送りなどを終え、16時15分に再度、全体集合記念写真を撮って1日中続くプログラムを終了しました。僕の参加した綱引きでは黄団は見事に勝利し、全体の優勝もできました。でも勝負は関係ない。高齢者にも参加を呼び掛け、若い実行委員たちがみんなで楽しませんてくれた。この10日間以上、朝早くから深夜まで運動会の準備をして、進行を行ったのはみんな若い人達です。運動会を終わってからも結束した若者たちは飲んで騒いで、充実した日々をかみしめているかのようでした。

 

日韓関係、日中関係とは異なる韓国の方、中国の方たちとの生活

 日韓関係は一時期に比べ、よくなっていますが、日本にいると日本側の考えばかり聞くことになります。在韓の人達や韓国の人たちと一般の日本人が日韓関係について話をすることを僕たちは避けています。ピースボートでは上記の運動会のように僕たちは韓国の人や中国の人達と交わりながら生活をしています。慰安婦や徴用工問題があらわになった後、日韓関係は以前よりもぎくしゃくし、日本人は韓国人を嫌うようになりました。その理由は韓国の反日教育のせい?様々な理由があり、それらはもっともかもしれません。だけど「日本は韓国のインフラを整備し、教育を充実させてあげて、人口も増えて、貧しい生活を豊かに変えてあげた。戦後の漢江の奇跡も日本が韓国に多額の資金を援助したからできたこと。韓国人は日本人に感謝すべきなのに、何でここまで日本人を嫌うんだろう?」という考えが日本では定着しつつありますよね。

 20歳代の在韓の男女2人が企画した「日本に過ごす韓国の若者の考えを聞いてみよう」に参加しました。僕たちは彼らの考えを聞いたことがなかったから参加したのですが、大いに考えさせられました。「日本は韓国を併合して(植民地ではない)、韓国は日本になった。だからインフラや教育制度を日本本土と同じにするのは当然のこと。だけど明らかに韓国人を差別してきた。これって豚によいエサを与え、よりよい環境を与えて太らせて、豚の持ち主が儲けるためにやっているだけのことじゃない?これで豚はしあわせになったと言えますか?」といわれて、複雑な心境になりました。ただし、戦争を起こした人たちは決して公正ではないけれど、裁判で裁かれ、今は全く違う世代になっているのに、いつまでも謝罪し続ける必要はないじゃないかとは思っています。過去に日本人はアジア諸国に大変な迷惑をかけたことは忘れてはいけないと思いますが、新しい世代の人たちは新しい関係を築ければいいなと思っています。日本人は中国人のことも「うるさい、声が大きい、マナーが悪い」といっていますが、一緒に毎日を過ごしてみると「中華圏の人たちは一般的に日本人よりも明るくて積極的」と僕には映ります。日本人は個性よりも、とても調和を重んじる関係を好みます。そして質問をしても日本人は他人の気に障るようなことをしたくないので答えはあいまいなことが多く、答えないことも多いです。だから常に他人のことを気にかけながら生きなくてはならない文化があり、オリジナリティのある答えをすると嫌われるかもしれません。そして上下関係にも厳しい。ああ息苦しい。僕は海外旅行をするときに、旗を持った日本人ツアーガイドについていく多人数参加の日本人ツアーは面白くないので好きじゃありません。だって、誰もコミュニケーションを取ろうとしないから。日本人は個性を嫌うくせに、個性のある白人を素敵だと思う一方、個性のある同じアジアの同胞をあまり好きになれない傾向にあるのはなぜなんでしょうか?

 こんなことについて長々と書くと、「平田はピースボートに洗脳されたの?」と右翼がかった人たちから言われそうだからこれ以上は書きません。だけど、世代も政府も変わったとはいえ、日本は多くの国を侵略して多大の迷惑をかけたのは確かです。それと日本軍が先に手を出したとはいえ、日本でも多くの人々が米軍によって無差別爆撃され、広島、長崎と2回も原爆を落とされ多くの一般民・在日韓国人だけではなく12人の捕虜になった米兵が亡くなりましたよね。実際にあった歴史をゆがめずに理解したうえで、政府の高官どうしだけではなく、一般の人々どうしがまじめに話し合う場を持って、若い人たちに新しい平和な国際関係を築いてもらいたいなあと思います。

 

スマホを見ない生活

 ピースボートに乗っているとWifi環境が悪いため、高齢者も若者も誰もスマホを見ていません。僕はスマホの便利さは認めますが、ちょっとヒマになるとスマホをのぞく若い人たち、通勤電車に乗っている人たちのほとんどがスマホに夢中になっている。若い人も中年のサラリーマンもほとんどがメールのやり取りか漫画を見るか、ゲームをやっている。小説を読む人、受験勉強している高校生は本当に少なくなりました。会社の休憩時間でもコミュニケーションをとる人よりも1人でスマホに没頭している人たちが多い。ついつい「日本人全体がバカになっている」と思ってしまいます。スマホをうまく使いこなせない僕の方がバカかもしれませんが・・・・。スマホを使わない船内の生活はとても文化的です。講演や文化的な情報交換、芸術や趣味や運動、歓談に費やす時間で暇がなくなるっていうのはとても充実した毎日を過ごせていることだと思っています。

 今日もピースボートは南米大陸に向けて進み続けています。海に沈む夕焼けがとても美しかった(写真5)。

イースター島上陸前

 これまでのところピースボートは太平洋を東に向かって1週間くらいずつ走ってハワイ、タヒチ、そして今回のチリ領のイースター島に行き、今日は1月10日、早朝6時に火山島のイースター島(現地語名ラパ・ヌイ)に着きました。ピースボートではハワイに着くまではハワイアン音楽とフラダンスを教える人を水先案内人として招待し、タヒチを訪問するまではタヒチやポリネシアの歴史や文化を学びます。決して観光情報だけではなく、学習するのです。ラパ・ヌイに着くまではオーバーツーリズムによる環境問題について学びました。そしてラパ・ヌイのダンサーでミュージシャンも水先案内人として招かれました。

 ラパ・ヌイには日本の与那国島のように大きな船が着岸できるような水深が深い港がないため、飛行機で行くこともできますが、ピースボートの場合、パシフィックワールド号の所有する小さなテンダーボートという船(写真1-4)、数隻を使って1回100人足らずが分散して2日間に分かれて上陸します。1800名の乗客のほとんどがイースター島を訪れるので、1人当たりが島で過ごすのは3時間足らずです。

 僕たちは2日目の朝、出発しましたが、1日目の観光が終わってから、ラパ・ヌイの島民たちがピースボートに乗り込み、夜、一番大きなシアターで素晴らしい音楽と踊りを見せてくれました。(写真5ギター2本と2つのパーカッション、そしておそらくアンデスの民族音楽「フォルクローレ」で用いるチャランゴ(もともとは表板以外はアルマジロが使われていましたが、今は木製)だろうと思いますが、マンドリンやウクレレのような高い音色の楽器2本が絶妙なリズムとハーモニーを生み出していました。(写真6)ダンスはポリネシアに位置するためか、女性はハワイのフラダンス、男性はニュージーランド原住民のマオリ族のような勇壮な踊り(ラグビーの国際試合前にニュージーランドのオールブラックスが見せるあの踊り)です。

 

いよいよイースター島上陸

 翌日はいよいよテンダーボートに乗ってイースター島に上陸ですが、オプショナルツアーには4種類あって、僕らのツアーはかつてイースター島の「長」を決めるための「鳥人儀礼」の伝説の場所、オロンゴ岬を訪問する特別なコースです。この儀礼は海鳥の生息する小島に泳いで渡りその鳥の卵を速く持ち帰った男が1年間、島を支配するというもので(写真7-9)、かつてイースター島は5万人の住人がいて、10の部族に分かれており、その部族の代表たちが「長」

になるために平和的に競ったらしいのです。でもこのオロンゴ岬を見るために、一番の興味である、モアイ像を見る時間がほとんどなってしまったため、僕たちのグループは合計8体のモアイ像しか見れませんでした(写真10)。他のグループは数十体のモアイ像を見れたそうで、僕たちのグループは少し物足りませんでした。10世紀以前から造られ始めたモアイ像は17世紀まで造られ続け、モアイを造って運び、建てるために大量の木材が伐採されたため、あるいは人口爆発によって木が伐採されたという説もあり、イースター島にはかつてあった森林が消滅し、今は岩がむき出しになっているところが多く、それによってこの島独自の文明が崩壊したそうです。この他にも西欧から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果(あるいは西欧による侵略の説もある)、最盛期には5万人いた人口がさらに激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、この過程で文化伝承は断絶したと言われています。その後、チリ領になって現在に至っています。僕たちが上陸中にスコールのような雨が3回降り、来ている服がびしょびしょになりました。でもその雨の後、とってもきれいな虹を見れたのが不幸中の幸いでした(写真11)。

 

阻害薬ラパマイシンはこの島で発見された

 もう1つ、薬剤師として知っておきたいことはラパ・ヌイのモアイ像のある土壌から発見されたマクロライド系の抗菌薬です。しかしこの物質からは抗菌作用よりも、かの有名なmTOR(mammalian target of rapamycin)タンパク質に結合して、それを阻害して過剰な細胞増殖や血管新生に関わる遺伝子の働きを抑え、オートファジーを促進し、AMPプロテインキナーゼを活性化して長寿になれると言われているラパマイシン(別名シロリムス)が作られてました。がん細胞の増殖などに関わる特定の分子の情報伝達を阻害することで抗腫瘍効果をあらわす分子標的薬として使われているほか、アルツハイマー病や心不全など加齢に伴う疾患の予防治療に役立っている薬物です。またmTOR阻害薬のラパマイシンは移植された組織や臓器に対する拒絶反応を引き起こすリンパ球(免疫系細胞の一種)の働きを抑える免疫抑制剤として腎移植後に広く用いられているほか、シロリムスは再狭窄の防止の目的で冠動脈ステントのコーティング剤としても使われています。

 なぜか赤道に近い南半球なのに朝夕は半袖では寒いくらい、涼しいです。そして日の出は午前7時すぎ、日の入りは午後9~10時となんか時間間隔がおかしくなりそうな今日この頃です。短い旅でしたが2日間停留したイースター島を終え、ピースボートはペルーの首都リマのカヤオ港に向かっています。ようやく太平洋の島ではなく南アメリカ大陸です。1月18~21日までとカヤオ滞在期間が長いのは、おもにインカ帝国の秘境のマチュピチュやウユニ塩湖など見どころ豊富な場所に行くためです。

 石川県の地震のニュースが徐々に明らかになり、ピースボート内でも少し深刻に考え、義援金を募るなどの活動が始まっており、現在、この船だけで約200万円の募金が集まっているそうです。冬のこの時期の地震は深刻ですね。船はモアイ像で有名な南海の孤島イースター島に向かっていますが(写真1)、この辺りは雨期になるらしく、曇りや雨の日が多いです。南半球とはいえ赤道を超えたあたりですが、蒸し暑い日本に比べれば、ずいぶん過ごしやすいと思いますし、早朝はむしろ涼しいくらいです。ただし船内は冷房がきついのがつらいです。室温が高いと船酔いしやすいので下げているようですが、外は完全な夏なのに、船内では上着がないと風邪を引きそうなくらい寒いです。

 

時間を無駄にしたくない

 このクルーズ船旅行は地球一周106日間の旅です。この間に、今までにできなかったこと、やり残したことをやってみたいと、誰もが何らかの目標をもって乗船していると思いますが、僕もそうで、自分の得意分野ではない免疫やがんなどについて基礎から学び直そうと思ってたくさんの本を持ち込みましたが、船内でのギターと唄の練習、ランニングや英会話上級教室、水彩画教室、趣味の会や講演会への出席に忙殺されてあまり進んでいません。旅行に行ったために遊んで、やる気をなくすようにはしたくないのです。常に昨日よりも今日、今日よりも明日の自分の方が進歩していたいのです。船内のジムで走っている時や船内デッキを歩いているときでも時間を無駄にしたくないので、英会話を聞いているので、DUO 3.0/CD復習用(写真2;これが英会話を上達したい人には一番お勧めです)、ALCのキクタン英検準一級の2冊の本の例文をiPhoneを通して頭に叩き込んでいます。

 

変な楽器を持ってビートルズをやっている人

 日本を出発して3週間も過ぎると少しずつ、僕も顔を覚えられて「健康長寿について講演した人」、「タヒチのモーレア島で英語ガイドの通訳してくれた人」と呼ばれることがありますが、一番多いのが「変わった楽器を持ってビートルズをやっている人」なのです。「走っている人」とはあまり言われたことがありません。実は僕はギターが好きで、モーリスやヤマハ、K.ヤイリ(以前に持っていたマーチンHD28よりも音がいい!)など結構いいギターを持っているのですが、ピースボートに乗って、ライブに参加することや、自分でライブを企画するなんてことは全く考えていなかったので、今回はマーチンのバックパッカーというコンパクトなギターを持ってきました(写真3)。音は悪くはないけれど、大きなギターにはかないません。最初はなんでいいギターを持ってこなかったんだろうと後悔していましたが、「変わった楽器を持ってビートルズをやっている人」ということで知られるようになったのは、いいことかもしれません。ピースボートでは毎朝6時から9時まではバーを借りて「楽器演奏広場」がオープンします。ギター(クラシックギターもエレキギターも)だけでなく、ウクレレ、エレキベースやバイオリン、トランペット、フルート、トロンボーン、ハーモニカ、オカリナ、パーカッション、琴や民族楽器、指笛や声楽の方など多種多様、ありとあらゆる楽器が集まり、コンサートも定期的に開催されています。そして開催するのはピースボートではなく、我々乗客自身も自主企画をすることができるのです。コンサートも初心者レベルからプロまで、誰でも参加できるのです(写真4-6)。僕もギターと唄の師匠である塚本さんと一緒に50分間のコンサートの企画運営をしましたし、自主企画で講演を2回しました。講演の反響は意外と大きく、熊本のご夫婦に「もっとお話をお聞きしたいので、食事を一緒にしたい」、4人の見知らぬ方たちから、同様に「食事を一緒にしたい」、そしてシンガポール、マレーシアの日本語の堪能な方たちも講演を聞いてくれていて、「私たちがピースボートにお願いするので、英語通訳をつけてほしい」という要望がありました。お食事会はもう2回済ませましたが、メモを書きながら、健康長寿について様々な質問を受けました。反響が少しでもあったのはとてもうれしいことです。

 

若い人こそ、ピースボートに乗ってみたら?

 船では15日に開催される運動会の準備で若い人から高齢者までみんなで盛り上がっています。玉入れ(写真7)、綱引き、大縄跳び(写真8)、障害物競走などの競技を誕生月で赤組、青組、黄組、緑組に分かれて競うもので、妻は緑組なので「お父さん、何か緑のTシャツ持ってない?」と聞いてきたので、大阪マラソンの黄緑色の完走Tシャツを貸しました。僕は運動音痴なので応援だけにしようと思いましたが、運動神経は関係なさそうなので誕生月で分けられる黄色組に参加することになりました。若い人たちが中心となっている運動会の実行委員たちの準備(写真9)を見ていると高校、大学時代の学園祭の準備を思い出します。僕も大学生の時には学園祭の実行委員になって、朝から晩まで、時には実習までさぼって学園祭の仕事に没頭したものでした。それは今でも良い思い出になっており、自我、アイデンティティの形成に大いに役立ったと思っています。

 何度も言いますが、ピースボートは豪華客船ではありません。東南アジアの人たちをスタッフにし、ボランティアを増やし、食材も安価なものを選んでいるから、若い人たちでも100万円ちょっとあれば世界一周が可能ですし、最上級のベランダ付きのスイートの部屋でも500万円代です。お酒を飲まなければ衣食住は、基本価格に含まれますから、学生たちは4人部屋で2段ベッドに寝泊まりします。部屋の中で過ごすのは、基本的に寝るときだけです。本を読んだり、PCを使って仕事をするのはホテルのロビーにあるソファのような場所が船内にいくらでもありますし、最上階に行けばプールサイドの日光浴をするような長椅子がいくらでも空いているし(写真10)、7階のウッドデッキにも椅子があります。

 勉強をしようと思えば、どこでもいくらでもできますが、それは大学でもできること。ピースボートでは様々な催しがありますが、それを運営しているのは学生や20歳代の若者が中心なのです。PAの担当、撮影の担当、司会や、催し物の運営アシスタントなどは無償で若い人たちがやっているのが、ピースボートの安さの一因だと思うようになってきました。環境問題や人種差別、性差別、平和を考える講演も多いので、極右の人たちの一部はピースボートを嫌っている人がいますが、日本人だけでなく韓国、中国語圏の台湾、香港、中国、シンガポールやマレーシアなど多民族の人々とうまく共存共栄しています。日本では中国や韓国のことを毛嫌いしている人がいますが、どこの国の方も、話をしてみるとほんと素敵な人がいっぱいいますよ。ピースボート参加者のほとんどが夫婦か1人旅なのでレストランでは、必ず挨拶をして会話をします。日本の日常生活では社員食堂でもあまり話をしなくなりましたが、ピースボートは学校のようなもので時がたてばたつほど知り合いが多くなります。レストランで働く親しいタイ人のスタッフや部屋の掃除をしてくれるインドネシア人にはファーストネームで呼び合ったりしています。僕はこの雰囲気から楽しかった学生時代を思い出すのです。下船した後も、毎年、定期的に会合を持つ人たちや、船で知り合った人たちがリピーターになることもよくあることだそうです。僕はピースボートは初体験ですが、「何回目ですか?」というのがあいさつ代わりになるくらいリピーターが多いのです。まあ、それくらい、充実した生活を送れる場所なんだなと思います。

 学生時代が暗く、思い出があまりない若い人がいれば、一度、ピースボートに乗って、スタッフとしてボランティア活動をやれば、同世代の人たちと苦労を分かち合えることで、きっといい仲間が増えることだと思います。僕も何の思い出もない灰色の生活だった高校生時代と比べ、様々な体験ができて大人になれた大学時代が人生で一番、捨てがたい思い出でしたから。そしてその時の友達が今でも一番の親友ですから。

 

 大晦日は「スター誕生」という1人2~3分の一発芸大会、日中韓の3つの言語を持つ乗客が一緒に楽しむ企画が、紅白歌合戦以上に楽しかったです。最後は「カントリーロード」を全員の大合唱で盛り上がりました。そして元旦はおせち料理も楽しめましたが、石川県の地震の悲しいニュースも入ってきました。

 1月2日(火曜日)フランス領ポリネシアのタヒチ島の首都パペーテに到着予定でしたが、骨折患者が出たということで元旦の深夜に到着しました。高齢者の多いクルーズ船ではこういうとはありがちです。

 正月の2日なので、タヒチ島のほとんどの店は閉まっており、一番目当てのマーケットプレイスもクリスマスから10日間休みだそうです。物価はハワイに比べると安いけど、円安の影響で日本よりは全般的にちょっと高いように感じましたが、ステーキ用の肉は安かったです。タヒチの大自然を堪能したい人の多くは近くのモーレア島に30分程度かかるフェリーで渡り、島を周回したりシュノーケリングを楽しむようです。モーレア島には、色とりどりの熱帯魚、光線、サンゴがいっぱいの豪華な結晶のラグーン。ハワイよりももっときれいな海を堪能したいと期待していました。僕はピースボートのオプションツアーではなく、ネットでTripAdviserを介して、小さなヨットでセーリングを楽しんだり、ラグーンやおとなしいサメやエイ、熱帯魚などをシュノーケリングで見たりする「モーレア島発見半日セーリング」を予約していました(写真1)。このツアーはパペーテからモーレア島までフェリーかボートで30-60分で片道1500円くらいかけて自分で行き、午後から3時間なので、23時出港のピースボートには間に合いそうです。

 

アクシデント発生~ツアーに参加できず~

 集合場所は12時半にモーレア島のMoorea Marinaです。島の人たちに聞くとフェリーから降りて10分程度歩くと着くということで安心しましたが、誰も集合していないのです。ヨットもたくさん停泊しており、誰に聞いてもMoorea Marinaはここだと教えてくれました。でも12時になっても誰もやってこないので、不安になって電話をしてみても誰も出ません。さらに不安になって、本当にここがMoorea Marinaなのかを問いただしてみると、実はこの場所から30km先にもう1つのMoorea Marinaがあり、そこが本当の集合場所であることが分かりました。でも時すでに遅し。しかもモーレア島にはタクシーなんてありません。どうやってその集合場所に行けるのか?30kmは歩けないし、ヒッチハイクでもしろというの?電話のメッセージも届かない。残念な気持ちのまま、仕方なくフェリーターミナルに戻ることにしました。

 

結局は楽しめたタヒチのモーレア島

 フェリーターミナルに帰る途中でツアーバスのドライバーにモーレア島1周「ターティダラーでどうか?」と聞いてきました。ターティダラーはtwenty dollarsに聞こえたので、「You mean two for forty?(2人で40ドルだよね?)」と聞くと「No, sixty dollars for two.」と答えたので、彼のターティダラーはthirty dollarsを意味するのだと理解しました。そういえばオレゴンでもイラン人は「th」の発音が苦手でこのドライバーと同じ発音をしてたっけということを思い出しました。

 そしてバスに乗り込むと僕たち夫婦2人分の席を残してピースボートの日本人客で満員でした。客たちは「僕たちは1人20ドルにしてくれたので交渉して同じ額にしてもらったら?」というのです。仕方なく僕はドライバーの隣に座りましたが、ツアーバスのドライバーはもちろん日本語は話せないので、英語でのガイドでしたので、気を利かせて、彼のガイドを通訳することになりました。バンガローに泊まるタイプの高級ホテルなどを見て(写真2)、ツアーバスの会社に寄って、支払いをすることになりましたが、ここでトラブルが発生。日本人客のすべてがドライバーの発音を聞き間違いしていたのです。「彼は確かに20ドルと言ったぞ、30ドルなんて詐欺だ!」と怒りだす客も出る始末。

 でもよーく聞いてみると「ターティダラー」という彼の発音を日本人客はみんなtwenty dollarsだと勘違いしていたのが原因でした。運転手がだましたいたのではなく、彼の発音が悪いのを日本人が聞き違えたのが原因だったのです。2人の客は怒って、そのまま帰ってしまいましたが、他の乗客はしぶしぶ1人30ドルを支払いました。僕が通訳役をしたのは初めてでしたが、タヒチ人ドライバーの英語はNative speakerよりも聞き取りやすく、「小学校は3歳から10歳まで行くんだ」とか「タヒチで一番美しいのがこのモーレア島、2番はボラボラ島だ。ボラボラ島にはこの島から飛行機で行ける」「フランスからプロテスタントの牧師が初めてタヒチを訪問したので、タヒチでは60%がプロテスタントで、そのほかは順にカトリック、モルモンなどキリスト教でも10種類の教派に分かれている」とか、「フランスは収入の15%の税金、そのほか何にでも税金をかけてくるので島民は独立したがっている」など面白い話も聞けた。観光バスでの通訳初体験は結構楽しめたし、運転手とは仲良くなった(写真3)。天気は良くなかったものの、やはりタヒチの海、山の景色は素晴らしかった(写真4,5)。

 

 翌日1月3日は自主企画で塚本・平田コンビの初の50分間のコンサート。ビートルズ、サイモンとガーファンクル、エリック・クラプトン、そして日本のフォークなどをスタンドマイク1本ギター用のマイク1本で、ビートルズのポールとジョージが1本のマイクをシェアするスタイルにしてみました(写真6)。パーカッションのプロの小栗さんにも手伝っていただきました。結構受けました。観客の皆さん、関係者の皆様に感謝!感謝!

 

 

 船内は冷房が効いているため平田は風邪気味ですが、元気です。これから船はラパマイシン(シロリムス)の生まれた島、モアイ像で有名南海の孤島「イースター島」に向かいます。1月10日(水)の到着予定です。

再び太平洋~船内の日常を紹介します~

 12月26日の夜に船はホノルルを出港してタヒチに向けて南下し、27日は太平洋上で遅めのクリスマスを船内で祝い、12月30日には赤道を通過して僕は今、南半球にいます。そしてもちろん、クラブ活動が再開しましたので、洋上でもまったく退屈していません。ピースボートの1日はとても忙しいのです。朝一番の最上階でのラジオ体操が終わると(写真1)、ヨガ、太極拳、サルサ、社交ダンス、ズンバなどの様々なダンス教室があり、妻はダンスが好きなのでもっぱら身体を動かす方に参加しますが、僕は朝6時から8時半まで「楽器演奏広場」でさいたま市在住で船内で知り合ったギターの師匠の塚本さんとコンビを組んで結構難しい洋楽を練習、オカリナやフルートの伴奏をやったり、70年代のフォークソングをギター仲間と一緒に歌ったりして楽しんでいます。

 自主企画の「マラソン完走談議に集まろう」で70歳代、80歳代でマラソンを完走した猛者とお会いできました。そして午後はジムのトレッドミルで1時間疾走した後、1周約500mのウッドデッキを英会話を聞きながら5km程度速歩をしていますので、この12月は生涯最高の走行距離になり、いつでもフルマラソンを完走できる状態に仕上がっています。そして夕焼けを眺めながらデッキでギターを弾いたりで(写真2)、ストレスはないので、健康そのもの。そして夜はバンドのコンサートや洋上シネマ(最上階では洋上シネマといって、プールの横に寝そべりながら映画を見ることができます)。妻夫木聡、安藤サクラの「ある男」は結構よかったです。スピルバーグの「ウエストサイド物語」は良かったけどスピルバーグでもオリジナルを超えられなかったような気がします。などなど、毎日、結構新しい映画を無料で楽しめます。(写真3,4,5)。

 

船内の食事事情

 14階にあるビュッフェスタイルのレストランは6時から22時まで、いつでも好きなだけ食べられますし、ほかにも洋食、和食を楽しめるレストランが2つあり、どこでも食事は無料。ホテルのロビーのようにソファでくつろぎながら本を読んだりPCを使って仕事をして、お腹がすいてピザを頼んでも、無料だし、最上階のデッキにあるアイスクリームも無料です。オアフ島上陸時のランチ用に公園や海岸で食べるためのクロワッサンやマフィン、バナナやリンゴをランチボックスに入れて持って帰るのも無料ですから、食事に関してお金を使うことはまずありません。有料なのはお酒類と、居酒屋「波へい」で注文する酒の肴とすし屋くらいです。基本、ホテルと同じですから、ベッドや部屋の整頓、タオル、バスタオルやトイレットペーパなどの交換は船のスタッフがやってくれます。バーは2か所ありますが、もっぱら集会所やコンサート用に使われており、お酒を飲む場ではないというのが、他の豪華客船と異なるところでしょうか。それと食材は誰かが言ってましたが、「業務スーパー」などでかなり安く仕入れて、工夫しているという感じです。お昼にちらしずしやそばやうどんも食べられますが、一番安い乾麺を使っています。でも和食が全く食べられないよりは随分いいと思っています。ピースボートは「平和の尊さを知る」という目的も持っていますので、お金のない若い人たちでも100万円ちょっとで乗ることができるので決して豪華ではないのですが、食事内容には全く不満はありません。厨房、レストランのボーイや部屋の清掃などのスタッフ数は、インドネシア人が最多でそのほかに、タイ人、フィリピン人(バンドメンバーはやはり英語の堪能なフィリピン人です)、インド人、欧米人と多彩です。中国語、英語、韓国語、スペイン語の堪能な通訳スタッフも若いボランティアのような感じで20名以上います。

 

自主企画で講演をやってみた、そして結構受けた

 12月28日、29日には「平田の健康長寿塾~何を食べたらいいのか?~」という自主企画を開催し、得意の講演をしました(写真6)。医療者向けではない講演は腎臓病患者、透析患者の会で話したことは何度もありますが、一般人向けの講演はたぶん、初めてですので、難しくならないように気をつけました。地中海食、糖質制限食、そして糖尿病学会が推奨してきた低脂肪低カロリー食を比較すると、すべてにおいて低脂肪低カロリー食が勝ることがなかった(Shai I, et al: NEJM 359: 229-241, 2008)という話を中心に、高齢者、フレイルで痩せた高齢者の食事についても話しました。しかし1回目は50分の予定が55分話してしまい、次のプログラムの方に迷惑をかけました。「話が長い」という平田の癖はいつまでたっても直りません。でも2日目はうまくいき、いろんな質問を受けましたし、講演後はいろんな人から声をかけてくれるようになりました。評判はとても良かったようです。

 

コンサートも結構受けた

 僕のギターは一見、バラライカのような変な形をしているので、持っているだけでたくさんの人たちから「何の楽器?」とよく聞かれます。商品名はバックパッカーといってギターメーカでは一番有名な老舗のマーチンがギターを作った時に余る端材を利用して、薄く小さく軽いギターをメキシコで作ったものです。コンパクトギターと違って弦の長さは普通のギターと一緒なので、弾きやすいのが特徴、ストロークした時の音はフルサイズのギターにはかないませんが、指引きの好きな僕には合っています。でもこの変なギターのおかげで、「変なギターでビートルズを演奏する人」と船内では徐々に知られるようになりました。

 28日のLet’s Enjoy Musicコンサートは塚本さんとサイモンとガーファンクルの「4月になれば彼女は」とアニマルズの「朝日の当たる家」、翌日はビートルズの「And I love her」がかなり受けました(写真7)。さいたま市在住の僕のギターの師匠の塚本太一さんはギターとボーカルをyoutubeにアップしています。Youtubeではギター演奏に関してはうまい人が多いのですが、塚本さんはビートルズやクラプトン、サイモンとガーファンクルや日本語でも「なだそうそう」など、素晴らしいアレンジのギターでギターもボーカルもかなりうまいのです。1月3日には塚本さんとのギターデュオと打楽器のプロの小栗さんに入ってもらって、3人で50分のミニコンサートをやることになりました。乗船客の多くが高齢者なので、ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ボブディランなどの1970年前後の曲を中心にしようと思っています。塚本さんは何でも演奏できる人ですが、曲決めは「平田さんが決めていいよ」と寛大です。

 ピースボートでの旅は、講演会、次回寄港地情報、コンサート、映画、ダンス、ヨガ、趣味の自主企画など、すべてが充実しており、参加していると暇なんてありません。勉強するための本をいっぱい持ってきましたが、なかなか読む時間が見つけられなくなっています。とりあえず英語だけは、走りながらでも聞けるので、レベルアップしようと思っています。そして野菜、肉をいっぱい食べて、健康によいオリーブ油を摂って、いっぱい運動して、平田はすごく健康です。

 第33回の「基礎から学ぶ薬剤師塾」は2024年2月16日(金)18時半から(20時半までの予定)です。今回も事情があり録画を見ていただき、Q&Aはございません。登録していただいた方のみ視聴できますが、再放送もございません。申し訳ありません。

 今回のテーマも初心者向けシリーズ5回目で、「初心者向けシリーズ⑤ 感染症と抗菌薬の使い方」です。大学で学んだ薬物治療学ではわかりにくかった感染症の基礎と抗菌薬について殺菌性抗菌薬はほぼ腎排泄であり、グラム陽性桿菌、陰性球菌は知らなくていいなど、我流ではありますができるだけ分かりやすく解説したいと思っています。

 参加を希望される方は 申し込みフォーム に記入のうえ、2月11日までに送信してください。

 薬剤師塾となっていますが、医師・看護師など医療従事者であれば参加可能です。300名まで参加可能ですが、登録者数はいつも200名を超えていますので、早めに登録してください。

 

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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