学生時代にはお金がなくってというか、親に「お金を送って」って言えない性分だったので、大学の時には暇を見つけてはアルバイトをやっていた。1年の時は18時から24時まで大阪南部合同青果市場で荷物の積み下ろし。休みの日は18時から午前6時まで12時間勤務もしたっけ。ミカンは段ボール箱だからいいけど、リンゴが来ると木箱なので肩が痛い。皮がむけてヒリヒリすることもあったが、市場のおじさんはバンドエイド1枚もくれない。大根が数トントラックで来るとおじさんたちとアルバイトの学生たちが1列に並んで両手に1本ずつ大根をつかんで隣の学生にパスをして市場内に大根の山を築く。それが90~120分は続く。半そでシャツだと大根の葉っぱに負けて両腕が真っ赤になる。とにかく大根とリンゴは嫌だった。その代わり西瓜は重いけど、落とすと割れて売り物にならなくなるから、それをもらって自転車のサドルに縛って下宿に帰ると先輩や同級生たちが大喜びしてくれたっけ。20200415_10.png12時以降に下宿に帰って寝て、朝5時半から8時までその青果市場の隅にある喫茶店で時給300円のウエイターのバイト。チャーハンの作り方と接客業を学ぶことができた。大阪、しかも客はみんな八百屋さんなので「お待ちどうさまでした」ではなく大きな声で「おまちどーさん」と言わされた。睡眠時間は4時間ちょっとなので、大学に入っても講義中は睡魔が襲ってくる。成績はとっても悪かった。200人中190番くらいかな?でも留年は親に迷惑がかかるので絶対に嫌だったから再試にはめっぽう強かった。
 オイルショック前の夏休みまでは帰郷して広島県の呉市に帰ったら、呉市は重工業の町で景気のいいときだったので、日新製鋼で1日12時間労働して5000円もらっていた。当時の物価はJRの初乗りが30円、お好み焼きが100~200円、大阪薬科大学の学費が年間21万円(私学の薬学部で一番安かったから僕でも行けた)だったので、この当時の5000円は破格の大金だった。日新製鋼での仕事は、できた鉄板をコイル状にして大型トラックに載せる前に、そのコイルが元に戻ると大事故になってしまうのを防ぐため、鉄のワイヤーで縛りつけるのが僕の仕事。そんなに疲れる仕事ではなかったので、これは割が良かった。「平田君、今日は人手が足らんけん、連勤してくれんかのお」といわれると喜んでやった。連勤ってのは36時間連続勤務で、今ならブラック企業と言われかねないが15000円の大金を仕事が終わるともらえる。真夜中の2時間だけ休みがもらえるので鉄板でできたコイルの中でヘルメットをかぶったまま丸まって寝た。これで貯めた10万円はステレオと冷蔵庫を買うとほぼなくなった。このころの家電製品は高かったのだ。2年の時にはオイルショックでトイレットペーパーはなくなるわ、洗剤は売り切れるわの昭和で有名な大騒ぎがあり、物価はうなぎのぼりだけど景気は冷え込んだ。2回生になるとたった1年しかたっていないのに、呉では仕事が何もなくなった。仕方なく呉駅近くの職安の前で待って土方の仕事にありついた。でも夏休みの猛暑時にドリルだけならまだしもツルハシやシャベルを使っての炎天下で手作業の穴掘りの土方仕事はきつかった。1日5000円だが、2日は休まないと体力が回復しない。
 仕方なく大阪に戻って京屋マネキン(いまはKYOYAというおしゃれな会社になっているみたい)で三宮のデパートや名張のダイエーなどの模様替えを閉店から朝までかけてやったり、お歳暮シーズンには薬科大学前の運送屋の運転助手もやった。ラジオから流れるイルカさんの「なごり雪」を助手席で聞いたのを思い出す。ガスタンクとその蓋の溶接がうまくいっているかどうかをレントゲンでチェックする仕事は被曝する危険性があるので高給だった。20200415_20.pngこのレントゲンの職場は門真にあって、いつもは本職の人の助手として車の乗っていろんな溶接工場に行くのだが、ある日、「おう、平田君、今日は玉出まで出張してくれへんか?」といわれ、地下鉄に乗って玉出まで行くのだが、作業服に安全靴、ヘルメット姿を同級生に見つかると恥ずかしいので、ずっと下を向いていたっけ。1,2年生の時にやったアルバイトの種類は約30種類。ようやく3年生になってから家庭教師という楽で結構稼ぎが良い仕事が見つかった。教えるのはうまかったので中学3年生を教えて、望みの高校に受かったので、高1になってからも続けさせてもらった。週1回2時間で1月12000円、時給としては最高で、しかも安定している。これは大学を卒業するまで続けさせてもらった。
 今でも青果市場や日新製鋼や真夏の土方のことを思い出す。みんなが寝ている真夜中に「なんで俺だけ、こんなに働かなくっちゃいけないんだろう」と思うと情けなくって泣きそうになったことを(実際には絶対に泣かなかったけどね)。でも今、締め切り地獄になっても、あきらめず、めげずに30冊近くの本を書き続けることができたのは、このつらい経験(20歳代のころマラソンをやったのもよい経験だったのかもしれない)のおかげで神経がかなり太くなったからじゃないかなと思っている。以前に偉い人が言っていた。「学生は勉強をするのが仕事。アルバイトなんかするもんじゃない。勉強に打ち込め!」と。僕は他人の言動に影響を受けやすい。アルバイトする代わりに大学の図書館に入り浸って勉強していたら、落ちこぼれることなく、もう少し早めに芽が出る薬剤師になれたかもしれない。それもすごくわかるが、そうできたのなら誰も苦労はしない。この昭和48年から52年の4年間は親に甘えるな!死ぬまで働け!」という平成の子には理解できない、昭和の美徳がもてはやされる時代だったんだ。

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)