朝6時に起きて、宮原1丁目の坂道を一気に駆け下りて呉駅へ、「あった!」「外木場、完全試合」の文字の載っているスポーツ新聞が。でも一番嫌いな報知新聞だけ。ほかのスポーツ紙は全部売れてしまってた。それでもいいやと報知新聞を買って、坊主頭に汗をかきながら、息を切らしながら坂道を駆け上ってわが家に帰り、カープ狂の母親の喜ぶ顔を見て、それから中学2年生の僕は坂道を駆け下りて、いつものように中学校に通っていった。呉って町は長崎のように平地が少なく、山の斜面に家がへばりついているから坂道だらけ。コンビニなんてこんな時代にあるわけがなく、スポーツ新聞を売っているのは駅の売店しかなかった時代だ。
このころのカープは、たいてい最下位。4位になればよく頑張ったといわれたし、それでも我が家はみんな夢中でカープを応援していた。うちの母親はナイターでも部屋を真っ暗にさせてテレビをつけず(その当時、広島でもカープのテレビはほとんどなく、テレビ中継があるとすれば巨人戦だけ)。全試合、ラジオ中継をしていたラジオ中国RCCの音を全開にして、カープの選手が内野フライを打ち上げると、いつも母親は「落とせ、落とせ」と叫びながら祈っていたが、僕の記憶では1回もフライを落としてくれたことはない。
外木場義郎投手って知っていますか?鹿児島県出水市出身で、カープが初優勝した時の絶対的エース。背番号14。1965年にプロ入りして初先発の阪神戦でノーヒットノーランをやった。1968年、ぼくが中学2年生の時に、広島カープは広島東洋カープになり、監督は初めて外部から呼ばれた根本監督がなった。根本監督は大トレードを断行し、阪神タイガースから「打撃の職人」山内一弘(なぜかこの人はバッティングのことをバッチング、セカンドのことをセコンドと言ってた)が入団し4番を任せ、安仁屋宗八と外木場の若手2人にエースの座を競わせ、若い衣笠をレギュラーにして、この年のカープは強くなった。いつもこいのぼりの季節までといわれていたカープが6月になっても7月になっても首位巨人から離されずに、オールスター前まで首位争いをしていたのだった。だけど、いつものようにオールスター後は大失速。悪夢の13連敗(だったと思う)をして、いつものように優勝戦線から離れていった。でも連敗が止まってしばらくして、外木場が大洋ホエールズ(現在の横浜ベイスターズ)を相手に完全試合をやったのだ。もちろんテレビ中継はなく、いつものようにラジオ観戦。9回になるとドキドキしながら、1球1球ごとに「やった」「やった」から、最後のバッターを打ちとった時には「やったー!」となり、連敗の暗い気分を吹き飛ばしてくれた。まさに今年の25年ぶりの優勝直前のクローザー中崎を応援しているように。
結局、この年の外木場は21勝して最優秀防御率を取り、安仁屋は23勝して防御率2位だった。そして山内は打率.313で打撃十傑では王、長嶋に次いで第3位で、古葉竹識(のちの監督で、熊本の名門・濟々黌出身)は盗塁王。なのに優勝できなかったのはチーム打率がセリーグで最低の.224だったから。でもこのころからカープは猛練習によって走って守って、1点を守り抜く今のスタイルを確立しつつあったのだ。そして1972年に外木場は巨人相手に3回目のノーヒットノーランをやってのけた。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治(ただし完全試合はやっていない)と外木場の二人のみなのだ。大きな夢を見させてくれた1968年だったのだが、翌年、山本浩二が入団したものの、カープは相変わらず4位どまり。3年連続最下位ののちに、本当に夢がかなう初優勝は1975年。中学2年の時から7年後、ぼくが大学3年生になった時だ。
余談ですが、2006年に僕が熊大の教授になったころには、県外の優秀な学生を引っ張るため、南九州の各名門高校を回り、熊大薬学部の説明と模範授業を薬学部志望の高校生に対してやることになっていた。2007年、2008年と奇遇なことに2年続けて外木場投手の出身校・鹿児島県立出水高等学校を担当になった僕は、模範授業で「皆さんの高校のOBで沢村栄治と並んで生涯に3回ノーヒットノーラン、そのうち1回は完全試合をやった大投手がいますが知っていますか?」と聞いて、模範授業そっちのけで外木場談義を熱弁したのは皆さんの想像通りです(とはいってもまじめな授業もちゃんとやりました)。
上の写真:1968年完全試合達成時の外木場投手
下の写真:1975年カープ初優勝時のエースの雄姿