熊本に来て早や10年。極度の方向音痴、人の名前、薬の名前が出てこないという認知症症状は順調に増悪しつつあるものの、熊本の生活にはすっかり慣れました。今、僕はすごく忙しいです。でもすごく楽しいです。僕が大学を卒業し40歳になるまで薬学系の学会に参加したことは1度もなく、病院薬剤師会をはじめ薬学関係の会や学会には全く所属せずに、それでも一生懸命、薬剤師をやっていたつもりの20年足らず。思えば薬剤師になりたての頃は「暗黒の時代」でした。患者さんに薬の名前も薬効も教えちゃダメ。だからPTPシートの名前の部分をはさみで切り落としていた。それが病棟に行けるようになったのが、ちょうど40歳の時。すっごく遅い「本当の薬剤師」としてのデビューでした。それからの僕は夢中になりすぎて、みんなに迷惑をかけたかもしれないけれど、仕事が楽しくて楽しくて仕方ない薬剤師になれたのです。

 40歳を境に僕を変えたきっかけはいくつかあります。服薬指導ができるようになったこと、メンター(指導者)に出会えたこと、TDMを始めたこと、薬物動態学を初心に帰って勉強したこと、いろいろありますが、今回はダメ薬剤師の僕を変えてくれたドラッグフォーラムオーサカ(DFO)というユニークな勉強会についてお話ししたいと思います。

 僕は39歳の時に田中一彦先生という麻酔科医のメンターに出会えました。「養老の瀧」のような安い居酒屋が大好きな、どこにでも普通にいる「人の良いおじさん」に見えます。でも実は初代TDM学会の理事長であり、第1回の国際TDM学会(IATDM-CT)の大会長でもあり、今ではどこでも使っているアルコール手指消毒薬の「ウェルパス」の発案者で、いろんな実力者を知っていました。そこで紹介されたのが現新潟薬科大学教授の上野和行先生。薬物療法や動態はこの厳しい先生の影響で猛勉強しました。

 上野先生に「一緒にやってみよう」と紹介されて役員になったのが、1990年に関西の薬剤師の集まりである「ドラッグフォーラムオーサカ」という非常に個性的な勉強会。メーカーに頼らず勉強会をやることは大変ですが、この会は年に10回も勉強会をやっているのに、特定なメーカーがスポンサーになることはなく、テキストを発行していたため、13万円の広告を4件とって12万円。あとは11000円の参加費を取って資金を作り、日本中から講師を呼んでいました。年に10回の開催ということは、その準備のための世話人会も年に10回。それが終わるたびに安い居酒屋で役員同士で「薬剤師論」を戦わせていました。

 「ドラッグフォーラムオーサカ」の会長は廣田育彦氏(後の関西医大薬剤部長)、副会長は森田邦彦氏(後の同志社女子大薬学部教授)、事務局長が森嶋祥之氏(後の近畿大学病院薬剤部長)、監事が上野和行氏(後の新潟薬科大学教授)、本当にすごいメンバーばかりでした。

 こんなメンバーの中で揉まれて育たないわけがない。とはいえ、すごいプレッシャーやいじめによって、やめていった若い薬剤師も多かったのは確かですが・・・・。年に10回もやるとテーマ探しは大変ですが、ドラッグフォーラムオーサカは参加者に全くこびない、そして特定のスポンサーがいないため、メーカーにも全くこびない。僕が入ったばかりの時、「Polymorphism」について講演会をやろうということになりました。今ではおなじみの遺伝子多型ですね。アセチル化能の個人差の問題はN-acetyl transferaseの遺伝子多型、S-メフェニトインという抗てんかん薬を服用後に一部の患者で起こる重篤な副作用がCYP2C19の遺伝子多型が原因であったことが、このころ話題になりつつありました。でも一般の薬剤師レベルではほとんど知られていなかったし、これに関する雑誌の特集も書物もなかった時代です。テーマは前述のように「Polymorphism」です。「こんなテーマじゃ誰も来ないでしょう。『遺伝子多型が及ぼす薬物代謝能への影響』のような分かりやすいテーマにしましょうよ」と僕が意見を言ったら、「Polymorphismの意味も分からないような薬剤師には来てほしくない」という廣田会長の一言で、この講演会のテーマが決まりました。案の定、40人足らず(そのうち役員が10人以上)という客入りの悪さ。これがドラッグフォーラムオーサカの実態なのです。「月間薬事」や南山堂の「薬局」で特集になったような誰もが考えつくようなテーマは絶対にやらない。逆にこのマイナーなオタクだらけの勉強会にじほう(当時は薬業事報社)の記者が毎回取材に来て、その数か月後に月間薬事の特集が組まれるってこともよくありました。ユニークなオタクの集まりが年に20回も集まって飲み会(実際には忘年会や夏のビヤホールなどを入れると毎月2回は顔を合わせてました)をやるのだから揉まれます。このころ、まともな薬剤師の第1歩を歩もうとしていた僕が影響されないわけがない。この会は2000年以降も続き120回くらいまで開催されたのですが、かつて若手だった薬剤師がみんな大学教授になって去っていき、僕も腎臓と薬物療法に特化した勉強会をやりたくなって第100回の講演会を終えたくらいで退会しました。

  そして僕が立ち上げたのが「関西腎と薬剤研究会」です。最初は大阪中の腎臓オタクの薬剤師に声をかけて20人くらいで病院の会議室でジャーナルクラブでもできたらと思っていたのですが、役員候補に声をかけた全員が2つ返事で参加してくれるとのこと。これはひょっとしたらと思い、120人くらい入る医薬品卸会社の会議室を借りて、第1回の関西腎と薬剤研究会を開催しました。これが2000年の328日のことです。テーマは分かりやすく「腎不全患者への投与設計の基礎」で僕が講演しました。立ち見で入れない人も出て、この腎臓オタクの会になんと200人以上が集まりました。第2回はその後、透析医学会の理事長を2期連続務めた秋澤忠男先生(当時の和歌山医大教授)に講演をお願いして、またも200人近くの薬剤師が集まりました。ドラッグフォーラムオーサカとは異なり「分かりやすいテーマで、できるだけ多くの薬剤師に集まってもらって薬物療法をより良くするんだ」というビジョンで関西腎薬はスタートし、ドラッグフォーラムオーサカと同様、毎回テキストを発行しました。年5回の開催、時には合宿もやりました。神戸や京都に「巡業」もしました。その腎薬は昨年、佐賀腎薬が結成、そして今年は鹿児島腎薬、宮崎腎薬が22番目、23番目の地域腎薬として結成され、現在1700名の学会員が日本腎臓病薬物療法学会を支えてくれています。今回、僕が伝えたかったことは、「病院内に閉じこもっていずに、好きなことを夢中になってできる仲間と一緒に何かやれば、大きな実を結ぶかもしれない」ということです(この文章は熊本県病院薬剤師会の「病薬にゅーす」2016.9.20 Vol.49, NO1に掲載されました)。 20160930_2.png

写真は2人のメンターと僕、左が上野和行先生、右が田中一彦先生、そして真中が平田です(7th International Association of Therapeutic Drug Monitoring and Clinical Toxicology,

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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