学 歴(黒字は学歴以外)

1954年9月
広島県呉市生まれ  

1960年4月
呉宮原小学校入学。4年生まで3段階評価の「よい」を1回ももらったことがなかったくらい理解力が悪かった。運動会のかけっこで6人中4番が最高位と運動は何をやってもダメだった。東宝の怪獣映画にのめりこむ。

1967年4月
呉宮原中学校入学、初めての中間試験で200人中130位。努力はしてたので卒業時には30位以内に入り、商業高校か工業高校に行くつもりだったが、普通科で憧れの呉宮原高等学校に受験できただけでうれしかった。クラスマッチはいつも運動神経のいい子だけが出てたのに、全員出場と決まっていやいやながら出場したが、「平田のせいで負けた」と言われ、生きるのが嫌になった。日本人は多様性を認めないんだ、みんなよりも体力が劣るだけでつまはじきされることを知りふさぎ込む。いじめられっ子だったので、強さに憧れ、プロレスのアントニオ猪木にのめりこむ。

1970年4月
呉宮原高等学校入学。運動神経が鈍く、自分に自信がないので女子とは全く話ができない暗い生活の毎日で、思い出がほとんどない。

1973年4月
大阪薬科大学入学。古美術研究部に入部し、山崎勝弘(いわき明星大学教授になりました)・永田修一(長崎国際大学教授になりました)・土屋節夫(東北医科薬科大学教授になりました)1学年200人中、山崎が170位、土屋が180位、平田が190位、永田が200位の成績[予想だがほぼ間違いない]と出会う。1人暮らしになって少しずつ女子アレルギーを克服し、3年生になって自分の意見を持てるようになった。3年生の時に、3年連続最下位だった広島カープが奇跡の初優勝。勇気と希望をもらう。4年間に30以上の職種のアルバイトを経験、地下鉄に乗って作業着にヘルメット、安全靴姿を友人に見られるのが嫌でずっと下を向いていた。4年になってからビートルズ、かぐや姫の影響からギターを教えてもらい、ギターの練習にのめりこむ。

1977年3月
大阪薬科大学(現大阪医科薬科大医学)薬学部薬学科 卒業
(成績はおそらく200人中190番程度だったが国試はおそらく高得点で合格)

 

職 歴(黒字は職歴以外)

1977年4月
 
医師3名、30床、職員60名(当時)の透析施設・白鷺病院(大阪市)に入職 

1978年
臨床研究「尿毒症体液成分のchromatographyによる分析」を開始。毎日英語論文を夢中で訳していたら、英語論文が辞書なしで読めるようになった。

1979年
9月の25歳の誕生日にマーチンD-28(定価40万円)を購入。ティアック社の4チャンネルオープンリールテープレコーダー(約30万円)も購入し、ギター、バンジョー、マンドリン、ベースなどの多重録音の毎日。寮の自室がギターと録音機器だらけになる。11月4日の日本シリーズ第7戦で「江夏の21球」を大阪球場3塁側で観戦。このころ草野球にのめりこみ、阿倍野バッティングセンターで1日300球を打ち込む。

1980年
臨床研究「透析中のカテコラミン濃度の変化」を開始。某旧帝大教授から「博士論文になる」と評価されたが、指導者がいなかったため、日本語論文にすらできず。

1982年
マラソンにのめりこみ、陸連に登録して中日福井マラソンで3時間20分を切る(陸連公認記録)。楽器とレコード以外の支出を極度に切り詰めた極貧生活で1年に100万円を貯金して400万円の自己資金を貯めて住之江区南港に4LDKの新築マンションを購入。

1983年
病院長の勧めでボランティアを一緒にやっていた看護師と結婚。披露宴をする金がなく3万円で住吉大社で質素に挙式。結婚後わずか半年で翌年長男誕生、妻が神様のように見えた。

1985年4月
調剤しかできない薬剤師をやめようと小学校の教員資格認定試験を受験したが不合格。生活のため、やむなく薬剤師を継続。

1987年4月
白鷺病院薬剤科長

1988年
臨床研究「血液透析患者の血清微量元素濃度」を開始。透析患者の血清セレン濃度についての英語論文を独力でまとめたがrejectされる。このころ油絵、パステル画にのめりこむ。

1991年
住之江区図書館の英会話教室で22歳の美人教師シャロン先生(オーストラリア人の教える英会話にのめりこむ。英検2級を取得。

1992年
ますます英会話にのめり込み英検準1級を取得。

1993年
シャロン先生帰国により、英国人男性が新教師になったが、英会話熱が急激に冷め、英会話をやめる。

1994年4月
薬剤管理指導業務のベッド数制限が撤廃され、100床以下の白鷺病院でも病棟活動ができるようになる。田中一彦先生、上野和行先生という2人のメンターに出会い、20種類近くの薬物のTDMを開始。ドラッグフォーラムオーサカというユニークな勉強会に参加する。40歳にして薬学系の学会に初参加し、平田・和泉智先生のコンビを学会で売り込み、薬剤師という仕事にのめりこみはじめる

1998年4月
月間薬事に初の連載「透析と薬物療法〜投与設計へのアプローチ」の開始。

1998年9月
月間薬事の最後の連載「抗がん薬」執筆中に不明熱により65kgの体重が57kgまで減少し入院。原発性胆汁性胆管炎か閉塞性黄疸が疑われ、一時は死を覚悟したが、全く悲壮感を感じず、深夜に病室を抜け出して薬局で原稿を書いていたらナースに見つかり、病室に連れ戻される。

1999年4月
初の図書「透析患者への投薬ガイドブック」を刊行。以後約35冊の編集著書を出版。2年越しで他病院の天才・古久保拓先生(住民の数割が古久保姓という和歌山県龍神村の出身)を口説いて、白鷺病院に入職させる。 

1999年12月
木村健先生と出会い、広島県立呉宮原高校の後輩とわかる(前田頼伸先生も後輩で偏差値はあまり高くないが宮原高校の薬剤師は頑張っている)。木村先生と関西腎と薬剤研究会を結成し2年間会長を務める。これ以降、木村先生は僕のパートナー件、監視係となる。仕事が楽しくて寝袋で病院に泊まるようになる。翌朝、出勤してきた古久保拓に「巨大な青虫」と言われる。

2001年4月
白鷺病院研究室次長。部屋をもらったので折り畳みベッドを購入し、ほぼ病院で暮らす。

2004年9月
2001年に九州大学・澤田康文教授に強引に誘われ、博士課程において薬学博士取得
このころ、薬学部学生だった辻本雅之先生・浦田基樹先生らを修士課程学生として指導。浦田は和歌山県田辺高校出身で、古久保の後輩だが「かわいがってもらった経験はない」らしい。

2005年9月
白鷺病院を退職し国費留学によりオレゴン州立大学薬学部客員教授。Munar先生のお世話になる。イラン系アメリカ人で実力者の腎専門薬剤師Dr. Ali Olyaeiと意気投合する。

2006年4月
熊本大学薬学部臨床薬理学分野教授
。当時、宮村重幸先生と仲良くなり、当時大学院生だった近藤悠希先生と出会い腎臓に興味を持たせる。薬剤師も医師も自由に参加できる英語論文を読む抄読会を500回開催

2007年
日本腎と薬剤研究会を結成、竹内裕紀先生たちと必然的に出会い、初代会長に就任。
研究室対抗ソフトボール大会では頑張るものの、運動不足がたたり糖尿病になりかける。

2008年4月
附属育薬フロンティアセンター長兼任 育薬フロンティアセミナーを85回開催。

2012年
日本腎臓病薬物療法学会を結成、初代理事長に就任し、2020年9月まで務める。

2014年5月
尊敬する宇野勝次先生に誘われ、日本薬品安全性学会副理事長に就任(2021年大会まで)

2019年4月
熊本大学大学院生命科学研究部・薬学部臨床薬理学分野教授(センター統合のため)

2020年2月
大雨の中、熊本城マラソン5年連続完走。この後、コロナ禍。

2020年4月
熊本大学を定年退職し神戸に移住。浜松の伊藤譲先生に誘われ芦屋のI&H株式会社(阪神調剤グループ)学術研修部に転職、松山賢治先生と同僚になる。熊本大学薬学部客員教授(2021年9月末まで)・非常勤講師

2021年4月
念願の「基礎から学ぶ薬剤師塾」を芦屋で再開。300名まで参加可能な一般向けと少人数制のI&H株式会社社員向けをそれぞれ月に1回ずつ開催。今も薬剤師という仕事にのめりこんでおり、ブログ「平田の薬剤師塾」塾長を名乗り、現在に至る。

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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