7月22日(土)〜7月23日(日)に熊本で開催される第3回日本医薬品安全性学会・学術大会が近づいてまいりました。場所は熊本の都心部のホテルメルパルク熊本(熊本市中央区)です。日本医薬品安全性学会は、医薬品の適正使用の推進によって有効性と安全性を確保することを目的として発足し、いつも活発な討論が売りの学会です。

 今回は特別講演の東大・澤田康文先生、アレルギー性副作用の大家・宇野勝次先生の理事長講演、「薬局にソクラテスがやってきた」で話題の山本雄一郎先生、どんぐり工房の菅野 彊先生など超豪華メンバーの講師の先生方が来ていただけることになりました。もちろん、私・平田も大会長講演、ランチョンセミナー、シンポジウムなどで講演させていただきます。もう1つの今大会の売りは「医薬品安全性のための「よく分かるセミナー」です。1コマ30分で、分かりやすい内容の医薬品安全性に関する内容が1つの会場で22演題あります。初学者の方、学会が初めての方、これから勉強を始めたい方にとっても、非常に勉強になると思います。

 歴史を感じさせる復興中の熊本城、水前寺公園、黒川温泉、雄大な自然に囲まれた阿蘇はとっても素敵です。下通り・上通りなどに代表されるショッピング、食事、ライブハウス、バーなどには大会会場から歩いてすぐの便利さです。学術大会に合わせて、熊本をじっくりご堪能いただければ、幸いです。皆様のご支援と多数の参加を心よりお待ちしております。

第3回日本医薬品安全性学会・学術大会 会長 平田純生
平成29年6月吉日

  第3回日本医薬品安全性学会・学術大会ホームページはこちらです。

非会員だと事前登録10,000円になります。
会員になれば(年会費7,000円必要ですが)5,000円とお得です。
当日だと会員8,000円、非会員だと15,000円になりますので、
参加を考えている方は、ぜひ事前登録されることをお勧めいたします。

  事前参加登録画面はこちらです。

 

 

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詳細パンフレットはこちらからダウンロードできます。
 → 第3回日本医薬品安全性学会・学術大会パンフレット.pdf

 今回のマラソンの目標は自己ベストの3時間20分を切ること。10km地点は41分で通過。僕の実力からすれば早すぎるが、気分が高揚しているからか、あまり苦しくない。折り返し地点は1時間33分、好調が続いている。こりゃ、もしかして、このまま走れれば、3時間を切れるかもしれない。「栄光のサブスリーランナー」の夢がよぎった。

 だけど、前半飛ばしすぎたのがたたったのか、あるいは折り返し地点から続く向かい風のせいか、脚が思うように進まない。35kmを超えると脚全体が痛んでくる。ちょっとしたアスファルトの段差が膝に強く響く。だけど痛みをこらえ、頑張る。ゴールには由美ちゃん(当時彼女、現在妻)が待っているから。ゴールがやっと見えてきた。だが手元の時計を見ると、頑張らないとまた20分台になりそうだ。脚が思うように上がらないので、腕を思い切り強く振ってスピードをつける。ゴール地点に由美ちゃんが見えてきた。なんとか気力で3時間20分をぎりぎり切ってゴール。これが27歳の平成57年の44日の中日福井マラソンのこと。丹波篠山ABCマラソンでは何度も3時間20分台で走っていたが、初めて陸連に登録して公認の自己記録を作った。

 20170222_1.pngあれから35年。その後も何度かフルマラソンに挑戦したが、30歳を過ぎてからは、いつものことだが、左ひざが数kmから15km以内で確実に痛んで、それ以降はびっこを引きながら歩くしかなかった。去年の熊本マラソンも参加したが、数kmで膝が痛むのがわかっていたから、最初から歩いた。ただし関門は確か7時間までだから6時間で走れるようずっと時速7kmの速度を保ち、6時間で「完歩」した。今までのかかと着地だとすぐに左ひざが痛むので、今年からはつま先着地になるようにフォームを変え、コナミのジムのランニングマシーンでしっかりと走りこんだ。土日は2030km走ったが、つま先着地でマシーンだと膝が全く痛くならない。うまくいけば4時間ちょっとで完走できたはずだが、膝が痛めば競歩に切り替えるしかない。案の定、本番では13km地点で両ひざが痛み始めた。でも競歩に切り替えると全く痛みが出てこない。熊本マラソンでは沿道の声援がうれしい。広島出身の僕は去年は赤、今年は白のカープのユニフォームで走ったから途中何度も「カープがんばれ!」の声援をたくさんいただいた。去年も今年も36km地点では「母ちゃん(33年間連れ添っている由美子さん)」が待っていてくれる。39km地点を超えてから、歩くことをやめ、両ひざの痛みをこらえて、走り始めた。熊本マラソンのラスト1kmは急な上り坂。僕のタイムでは周りはほとんど歩いていたから、最後はおとなげない走りで、ほとんどごぼう抜き。「膝が痛くなかったら・・・・」。でも、「たら、れば」を言ったらきりがない。それでも去年より30分速い5時時間30分台でゴールできた。

  20170222_2.jpgゴールすると、そこは二の丸公園。熊本城の本丸・二の丸が視界に入ってくる。去年の参加賞のTシャツには立派な熊本城が描かれていたが、去年までの勇壮な姿と違って、眼下に映る熊本城は瓦がほとんどなく、屋根には野草が茂ってどこか痛々しい。確かに、本丸は見た目はいつもと違うが、それでもしっかりと立っている。今年のTシャツには「Start! Kumamoto」と書かれている。これから出発なのだ。

【熊本マラソン後の本丸と二の丸(219日平田撮影)】


 
この二の丸公園で今年の723日(日曜日)の早朝には日本安全性学会のみんなと一緒に早朝ランニングする予定だ。2年後には、再び立派な本丸に戻っているはずだが、この痛々しい姿の熊本城は、なぜか人生を感じさせてくれる。無機的ではなく、生きているような感覚を味あわせてくれる。このような傷ついた本丸の姿を拝めることは2年たてば二度とない。荒城となった熊本城、それでもしっかりと立ち続けている本丸を見ながら、7月には、みんなで一緒に風を感じながら走りましょう!

 

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 現時点で薬剤師が処方権を持つことには賛成しかねる。薬剤師は医師の処方を患者の病態、薬物の特性を十分理解したうえで、より有効かつ安全で、目の前の患者さんに配慮した最高の薬物療法を提供するという崇高な職務を全うすべきであり、ScienceをベースにしたIntelligenceの高い職種であると考える。
 そのためには「薬物療法のすべてに関して責任を持つのが薬剤師」といわれるようにしたい。しかし今の薬剤師の問題はその多くがOrder-taker(指示されないと仕事ができない人)であることではないだろうか。薬剤師が今後のスキルミックスによって薬物療法に対して例示された業務内容を受身的にやるだけでなく、より大胆かつ先進的な業務を推進・標準化し、医原病となるような副作用をなくし、患者様にとってより良い薬物療法を提供できるよう主体的に取り組まなければならない。そのためには薬剤師はSelf -starter(自分からイニシアチブをもって仕事のできる人)にならなくては。
 医学はアート、薬学はサイエンスとよくいわれる。患者の特性と薬物の特性を十分理解してうえで、最高の薬物療法の提供するのが薬剤師の職務。
 うまくいかない薬物療法を何とか改善したいという思いが臨床研究に駆り立てる。そのうまくいかない理由を徹底的に追及して行けば薬物療法は薬剤師の力によってよりよくなる。それが薬剤師の本来の姿なのではないのだろうか?
 日病薬から例示されたからやるのではなく、今、この患者さんの薬物療法に対して何が問題で、誰が主体的になって薬物療法を改善していくかを考えると、薬剤師である自分が主体的に改善するしかない。職能拡大は与えられるものではなく、実績を残した証しとして自ら勝ち取っていくものでは?

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  慢性腎臓病(CKD)患者に腎排泄型薬物を投与して中毒性副作用が発現した症例、あるいは腎機能悪化要因を持っている患者にアミノグリコシド系抗菌薬・造影剤などの腎毒性薬物、あるいは漫然としたNSAIDsの投与・不適切な利尿薬投与などによる腎虚血によって腎機能が悪化した症例は、今、現在に至っても枚挙にいとまがない。6年制薬剤師の誕生によって、これからの薬剤師は薬物動態・薬理作用・相互作用・副作用だけでなく病態にも精通した薬物療法のエキスパートになることが期待される。そのため腎臓病の薬物療法に関しては、アシクロビル、ジゴキシンなどの腎排泄型薬物を腎機能に応じて適切に減量することを怠ったために起こる中毒性副作用や、ベザフィブラートなどの腎機能を悪化させる薬物を不適切に投与したため起こる腎機能低下を未然に防止できる薬剤師が必要となる。さらにクラリスロマイシンとコルヒチンの併用など、CKD患者では特にマークしておくべき相互作用を予測することによって、未然にこれらの薬物不適切使用を回避できる実力のある薬剤師を養成することが急務と考えられる。57002156_m.jpg
  日本透析医学会の「二次性副甲状腺機能亢進症治療ガイドライン」に沿ったリン吸着薬の投与量・投与薬物の変更という日病薬の提言にとどまらず、「腎性貧血患者のガイドライン」に沿った検査データによるESA療法、鉄剤投与の適正化の医師への提案、腎排泄性薬物の腎機能に応じた至適投与設計の推進、さらにCKD患者に対して腎毒性薬物の投与忌避および代替薬の提案、相互作用により横紋筋融解症による腎機能悪化が懸念される場合の代替薬の提案なども積極的に行うべきある。これから薬剤師は「薬の処方は医師の仕事だから」と考えるよりも「患者様の薬物療法をよりよくする」ために、より主体的に行動する必要性があるのではないだろうか?

明日『これからの薬剤師のなすべきこと』に続く

  医薬品の供給、調剤、服薬指導などが中心であったわが国の薬剤師の職能が大きく変化しつつある。それは2012年より6年制カリキュラムを終了した薬剤師が生まれたことと、2010年4月の厚生労働省医政局長通知「医療スタッフの協働・連携によるチーム医療の推進について」が公表された。さらにこの通知に対して日本病院薬剤師会が解釈と具体例を明示した。。40118462_s.jpgその具体例の1つとして「維持透析患者のミネラル代謝異常の管理」が挙げられており、医師と薬剤師が協働して最適なプロトコールを作成し、血清リン値、血清Ca値、インタクトPTH値に基づいてリン吸着薬の選択・投与量調整を行うことが例示されている。また、2012年病棟薬剤業務実施加算が算定できるようになり、病院薬剤師は臨床薬剤師に変わろうとしている

明日『腎疾患の専門分野の薬剤師の職能拡大』に続く

  人それぞれに、いろんな夢があって、いろんな現実があって、みんな理想どおりになるとは限らないけど、夢を追い続けることは素敵です。夢は見なきゃ叶いません。だから僕は「夢中」って言葉が好き。「夢中」になっている自分が好き。「患者さん、自分、異性、家族、友人、いろんな人に対して夢中になれる何かを持ち続けましょう」。それが人を成長させる鍵だと思います。

  僕のことを話してみましょう。

  2歳になっても話せなかったので病院に連れていかれたが、単に頭が良くないだけだったみたい。3歳にようやく話すようになれたらしい。小学校4年までの4年間で1度も1/3の子が取れる「良い」を1科目も取ったことがなかった。たまに簡単な小テストで満点を取ると先生は答案用紙に「やればできる」って書いた。努力してないわけじゃなかったのに・・・・。ただ要領が悪かっただけなのに・・。

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  小学校の運動会、中学校のクラスマッチが大嫌いだった。だって50m走では一番遅い女の子と同タイムでみんなにからかわれて泣いたし、運動会ではいつも最下位だった。「今度のクラスマッチでは全員出場しよう」っていうことがあったけど、あんなにつらいことはなかった。だって案の定、僕が出ると点を取られるし、「僕が出たせいでクラスのバレーボールで負けた」って言われた。

  中学校の最初の中間試験では学年200人中130番だった。でも努力はしてたから期末試験で50番くらいに上がり、卒業前には20番位にはなれた。でも物理、地学、国語、特に古典、体育はさっぱりだめだった。今となっては好きになれるチャンスにめぐり合えなかったのかな?いやそのチャンスはあったんだろうけど気付かなかったのだろう。一番自信があったのは美術だった。一応、進学校に入学できた。でも高校を卒業するまで1度も女の子に声をかけられなかった。自分に自信がなかったから。

  ギリギリ入学できた大阪薬科大学での講義では先生が何を言っているのかさっぱり分からず、すぐにドロップアウトした。毎年、留年をかけて戦ってたから200人中の190番ぐらいの成績だったと思う。再試料を稼ぐためにアルバイトは30種類以上やった。でも、親に迷惑はかけられないから再試は強かった。

  成績もよくないし、要領もよくなかったから30床足らず、医師も3人だけの個人病院(透析専門の白鷺病院)に就職し、免許を持たない薬剤助手のおばさんに調剤を教えてもらった。ほかに薬剤師はいなかったから。このころは同窓会に出るのがつらかった。友人はみんな○○大学病院、府立○○病院、△市立○○病院って、すごいところばかりに就職していたから。自分に誇りをもてなかった。コンプレックスのかたまりだった。でもコンプレックスがばねになった。ちょっとやそっとじゃへこたれない自分を作ることができた。

  今じゃチャンスは誰にでもめぐってくるって思ってる。そのチャンスは「ある人との出会い」かもしれないし、「興味のあることとの出会い」、人から教わった、あるいは本に書いてあった「勇気を与えてくれる一言」かもしれない。とにかく自分を変える、自分を高める、モチベーションを上げる機会ってのは誰にでもめぐってくることだと思っている。多くの「成功できない人」はそれを感じなかったのかな

  ドキッとする瞬間、夢中になれる瞬間は誰にでもあるはず。それを忘れちゃったのかな?

  「物忘れ」といえば、僕ほど記憶力の悪い人は周囲にはいない。方向音痴だから、道も憶えられないし、人の名前も顔も覚えられない。人に紹介できるくらい「いい店」には何回でも行ったけどさっぱり憶えていない。人は神様じゃないからパーフェクトな人なんていない。人はみんないい面も悪い面も必ず持っている。

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  だけど進歩はしたい。人として成長はしたい。今になって考えてみると僕にとって「夢中」になれることがいっぱいあったことが、僕を育ててくれたんだと思う。おとなしい僕が世の中に知れたきっかけは月間薬事の連載と、その連載をまとめた「透析ガイドブック」という本だった。これを書く元となったのはたまたま病院の医局に置いてあった腎臓病に関する”The Kidney”という英語の本。いわゆる電話帳のような厚い本が3冊組の成書。さっぱりわからなかったけど、薬の部分はわかったので夢中になって訳して、要約を忘れないようノートに書き写した。そして数冊の英語の腎臓病の成書を訳し、わからない部分は原著論文を訳して補完し、ついに「自分ノート」が完成した。このころには英語の本の記述の間違いにも気づくようになっていた。そしてそのノートを基に本ができ、自然に「薬剤師」って仕事に夢中になって向き合えるようになった。僕のきっかけは夢中になれたことと、薬剤師って仕事が好きになれたこと。夢中になったら何でもできる。オタクは天才に勝てると信じたい(天才でオタクの人には勝てないけどね)。やっぱり、「夢はみなけりゃ叶わない」。ノートの片隅に以下の文章が書いてあった。多分、ぼく自身のオリジナルの文章だろうと思うけれど、誰かから聞いて書き留めたのかかもしれない。記憶力の悪い僕にはそれすらわからない。15457686_s.jpg  神様は万人に試練を与えるが、必ずチャンスも与えてくれる。時には試練がチャンスになることだってある。チャンスを与えられているにもかかわらず、頑張らなかったら、神様は後でもっとつらい試練を与えてくれる。そしてその試練はチャンスかもしれない。

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

旧年中はひとかたならぬご厚誼を賜りまして、大変ありがとうございました。

  昨年は我が愛しの広島カープがついに25年ぶりのリーグ優勝!残念ながら日本シリーズでは敗れましたが、もっと強いチームがいるということは、まだ目標を失わずに頑張れるってことです。お金がなくても練習量と気力で頑張れば、勝てるということを証明できたのは、とてもいい教訓になったと思います。

  1月~5月の育薬フロンティアセミナーは1月10日の「NOACの適正使用」から始まります。多くの薬剤師の先生方に参加していただければ幸いです。

  そしてなんといっても7月22(土)・23(日)には第3回日本医薬品安全性学会が熊本で開催されます。医薬品の安全性に軽いテーマのものはありません。たっぷり勉強になって、わかりやすい、面白い学会を目指します。

  毎年、去年は一番忙しかったと感じるようになってきました。確かに新刊書2冊、改訂版1冊を書いたので、土日も祝日も返上して、ほぼ毎日家に帰るのは0時過ぎでしたが、いやでやっているのではありません。この歳になってやりがいのある仕事ができるのはとっても幸せだと思っています。

今年も平田は精いっぱい頑張りますので、本年もなにとぞよろしくお願いいたします。

皆様に幸多き年となりますように。

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閲覧注意:一部、原爆についての生々しい描写があります。

 大阪に住んでいる映画好きの次男から「今、戦時中の呉市が舞台の『この世界の片隅に』っていうアニメ映画がとても良かったから、気が向いたら母ちゃんと一緒に見てみて。熊本ではDENKIKANでやってるよ」という携帯メールが来た。熊本市内のシネコンは、いつ行ってもガラガラだったけど、今はそのほとんどが地震でつぶれている。営業されている映画館に大挙して行くものだから、チケットを買うにも列を作り、話題のアニメ「君の名は」はソールドアウト。まるで大阪の梅田のようだ。DENKIKANは古くから町中にあるが、流行っている映画はやらないし、話題にはなったけど、マイナーな映画しかやらない、文学的で知的な感じのする素敵な映画館だ。勤労感謝の日、翌日の化学療法学会のシンポジウムのために沖縄に行かなくっちゃいけないけれど、福岡出発の飛行機は17時過ぎなので、朝早く母ちゃんと一緒に見に行った。
 広島弁が懐かしい。段々畑を背にして、毎日、なだらかな瀬戸内海を見て育ったこと、路面電車が走っていて繁盛していたころの呉市の本通りを思い出す。終戦当時の呉は海軍のある工業都市で人口40万人以上いて、日本で9番目の都市で、広島が7番目だったけど、駅前は呉駅前の方が広島駅前よりもにぎやかだったそうだ。お米屋さんのことを「配給所」と呼んでいた。スフの入った粗悪の綿製品が出回っていた。映画で描かれた戦時中と同じことが僕の思い出と重なった。僕が小学生の頃は我が家の裏山の休山(やすみやま)の頂上に巨大な防空壕があって、そこを秘密基地にして友達たちと一緒に遊んでいた。温暖な気候だったので、南海ホークス(その当時はキャッチャー野村、エース杉浦、盗塁王の広瀬がいて、王、長嶋のいた巨人と並ぶ黄金時代だった)が呉二河球場にキャンプに来ていた。八百屋さんでモヤシを買うと水がいっぱい入った樽の中から一握りのモヤシを新聞紙にくるんで、買い物かごに入れてくれた。買い物かごから水がしたたり落ちて、道路に水をまきながらお使いから帰っていた。牛肉なんて高くて買えないので、クジラやおからばかり食べていたし、給食の脱脂粉乳はまずかった。冬のセーターは母が編んでくれた1枚だけを毎日来て、一冬過ごした。夏は白いカッターシャツが1枚しかなかったので、学校から帰るとすぐに自分で洗濯して干した。ほかに着るものがなかったから。貧しかったけど、みんな一緒だったから、全然気にならなかった。それでも呉の宮原地区は造船景気で繁盛していて、原動機付自転車や初乗り70円のルノーのタクシーなどで結構にぎわっていて、山に家がへばりつくように密集していた(写真は僕が小学校のころと現在で、今は家も人通りも少なくさびれている:写真は中国新聞より)。1128-3.jpg.png宮原中学校には自衛隊の潜水艦や駆逐艦を見ながら通い、図工の時間のスケッチはいつも造船所を描いていた。僕は子供のころから絵を描くのが好きだった。『この世界の片隅に』の主人公のすずという女の子も絵を描くのが大好きで、上手だった。この映画はこのころの普通の人たちの生活を淡々と描いて進行する。やがて戦争が始まり、呉は海軍工廠や海軍があったから空襲でひどい損害を受けた。なぜか広島市は空襲がなかったことはよく母親から聞いていた。だけど、この映画と同じように最後は広島に原爆が落とされ、中心部は一瞬にして廃墟となった。僕がこの映画の舞台の呉出身だということを抜きにしても、この映画の出来は、秀逸だった。感動して、涙があふれ出た。でもネタバレになるので、内容はこの辺でやめておこう。
 母は原爆の落ちた時(8月6日)には女学校(今の女子高)に通っていて、夏休みなのに毎日、東洋工業(現在のマツダ)に通って鉄砲を作らされていた。朝8時15分に原爆が投下されたのだから、ずいぶん、みんな早くから仕事をさせられていたんだ。突然、閃光がした直後、ものすごい轟音とともに工場の窓ガラスはすべて爆風で落ち、天井も落ちてきて「死んだ」と思ったが、先生の「おーい、みんな大丈夫か~」の声で我に帰ったそうだ。工場が壊滅的になったため、家に帰っていいことになったが、帰りがけに市内から真っ黒に全身やけどし、衣服も剥がれ落ちた人々が「助けてくれ」「水をくれ」と言いながら呉方面にさまよっているのを見かけたけど、あまりに負傷者の数が多すぎるので、なにもできなかった。家に帰ると「お願いだから水を1杯ください」と言ってきた全身やけどの真っ黒い人が来たので、布団を敷いて休んでもらっていたら、1時間後には亡くなったそうだ。
 翌日から母は全身やけどの多くの負傷者が寝ていて野戦病院のようになった女学校の講堂で介護することになった。みかんの缶詰を1さじずつ患者さんたちの口元に配って回るのが母の役割だった。陸軍はこんなぜいたく品をこの時期でも隠し持っていたことに驚いたと母はよく言っていた。ある重症患者が「お願いだからもう1さじくれんか」とせがむので、「内緒じゃけんね」と言って2さじ分あげたが、その人は1時間以内に亡くなった。遠くに真っ黒な顔をした人がいると思ったら、その人はもう死んでいて、ハエがたかって真っ黒に見えただけだった。母はこうやって被爆者と濃厚に接触したから被爆者手帳を持っていた。
 母ちゃん(と呼んでいるが鹿児島出身の僕の嫁)のお父さんは広島の宇品港沖の似島(にのしま)の暁(あかつき)部隊という輸送部隊に属していて、8月6日の朝6時ころB29が1機だけ飛んできたので、砲兵だった義父はすぐに仲間と一緒に山に駆け上り、高射砲を打ったが、B29はあざ笑うかのように高度を上げたまま飛び去っていった。思えばエノラゲイが原爆を落とす前の偵察の飛行機だったようだ。似島にいた義父は直接的な原爆の被害には会わなかった。だけど市内の陸軍も警察もすべてが壊滅状態だったから、翌日からずっと救援と、死体処理をするために広島市内に入った。まさに地獄のようなありさまで、広島駅の裏に死体を山のように積んで焼くような仕事までさせられた。義父は輸送部隊だったのでガダルカナルで2回、自分の乗っている船が沈没した経験を持っていたが、広島での死体処理が自分の人生の中で一番つらかったと言っていた。もちろん、義父も二次的に放射線を浴びていたので被爆者。だから僕と母ちゃんは被爆者二世どうしの夫婦になる。母も義父もすでに亡くなったが、僕たちは戦争を体験していない。でも生きているうちに原爆のことはずっと語り継がなくてはと思い、話をよく聞かせてもらっていてよかったと思っている。義父は腕のいい左官で、僕のことをすごく気に入ってくれていて、僕もやさしい義父が大好きで、とっても尊敬していた。いつも鹿児島の地元・東市来の芋焼酎の七夕のお湯割りを飲みながら2人だけで語り明かしたものだった。
 母も義父も原爆を落としたアメリカに対する恨みを言っているのを聞いたことがないが、2人ともその当時、無駄な戦争を続けた陸軍や政府をずっと恨んでいた。日本でも戦争で多くの人が亡くなったけれども、同時に日本は中国や韓国、東南アジアの人たちに戦時中、大変な苦しみを与え、多くの人々を苦難に陥れた。その戦争を始めたのは僕たちの国、日本だったってことを僕は絶対に忘れちゃいけないと思う。

 

~おかげさまで「平田の薬剤師塾」も過去最高の参加者でした~

 いつも8月に開催される卒後教育「薬剤師のための医療薬科学研修会」は過去最高の221名の方々に参加していただきましたが、この時に前宣伝をして、9月に開催される育薬フロンティアセミナーも「平田の薬剤師塾・薬物動態って難しくない」というテーマで4回で過去最高の延べ261人の参加者でした。

  20161005_1.png私は薬物動態学を好きでもありませんしでしたし、得意でもありませんでした。でも薬がどのように吸収されて、どのように効果器官に分布し、どのような代謝・排泄され消失していくのか、いわば生体内の薬の行方をたどっていくことを知ることは、とても興味深いことです。薬がどのようにして効果を現すのか、どのようにして有害反応を起こすのかにつながる重要なことなのですので、40歳を過ぎてから勉強し始めて、何とか動態の基本はマスターしたつもりです。

 日本腎臓病薬物慮法学会が会員向けのみに発行しているグリーンブックの右側のパージの表に載っているクリアランス、分布容積、尿中未変化体排泄率、バイオアベイラビリティ、タンパク結合率の5種類のパラメータと代謝・消失に関わるCYPやトランスポータに関する情報があれば投与設計は可能です。消失半減期があれば投与間隔の調節などの便利ですし、特記事項には有害反応を起こさないようになるための情報などが記載されています。でも、左ページの表が臨床現場で使われているという話はよく聞くものの、右側ページが実際に活用されたという話はあまり聞いたことがありません。

  1回目、2回目で分布容積をはじめとしたパラメータの活用法について解説しましたが、難儀だったのが3回目のクリアランスでした。私の説明が下手だったからでしょうが、わずか30枚のスライドに90分以上の時間を費やしてしまいました。これに関しましては来場者の先生方にお詫びいたします。でもこのクリアランスの概念を理解すると4回目の相互作用については、この相互作用はいつ起こるのか、投与をやめてすぐに相互作用が消失するのか?この相互作用の強度は?どの薬の組み合わせが一番危ないのか?などの疑問が解けてきます。

 20161005_2.png薬物動態を好きになるには、まずはわかりやすい薬物動態の教科書を読破しましょう。管野 彊先生の「わかる臨床薬物動態理論の応用」(医薬ジャーナル社)がお勧めなのですが、残念ながら絶版になっています。でも、アマゾンでは中古品が1840円から販売されています。あるいは治療薬マニュアルの最初の部分、TDMの実践書から入ってもかまいません。2冊目以降、薬物動態学の専門書を読破するのが楽になります。

  1500~200種類もある薬物の動態パラメータは1つ1つ記憶しようとすることは苦行に等しいと思います。覚えなくてもいいものは忘れましょう。タンパク結合率80%未満のものは覚える必要がないと思っていますし、アミノグリコシド系のタンパク結合率は数%、3%、5%、10%以下など様々なデータが引用されていますが0%と考えて全く問題ありません。これからは覚えるのではなく、動態を理解し、予測できるようになることが重要だと思います。様々な薬物のTDMにトライすれば、飛躍的に薬物動態に強くなれます。解析ソフトに頼ってバンコマイシンのTDMのみでとどまっているのではなく、まず動態を好きになって、理解が高まれば異常値が予測されても、慌てることはありませんし、バンコマイシンだけでなく広範囲の薬物のTDMを始めることが可能になります。

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 熊本に来て早や10年。極度の方向音痴、人の名前、薬の名前が出てこないという認知症症状は順調に増悪しつつあるものの、熊本の生活にはすっかり慣れました。今、僕はすごく忙しいです。でもすごく楽しいです。僕が大学を卒業し40歳になるまで薬学系の学会に参加したことは1度もなく、病院薬剤師会をはじめ薬学関係の会や学会には全く所属せずに、それでも一生懸命、薬剤師をやっていたつもりの20年足らず。思えば薬剤師になりたての頃は「暗黒の時代」でした。患者さんに薬の名前も薬効も教えちゃダメ。だからPTPシートの名前の部分をはさみで切り落としていた。それが病棟に行けるようになったのが、ちょうど40歳の時。すっごく遅い「本当の薬剤師」としてのデビューでした。それからの僕は夢中になりすぎて、みんなに迷惑をかけたかもしれないけれど、仕事が楽しくて楽しくて仕方ない薬剤師になれたのです。

 40歳を境に僕を変えたきっかけはいくつかあります。服薬指導ができるようになったこと、メンター(指導者)に出会えたこと、TDMを始めたこと、薬物動態学を初心に帰って勉強したこと、いろいろありますが、今回はダメ薬剤師の僕を変えてくれたドラッグフォーラムオーサカ(DFO)というユニークな勉強会についてお話ししたいと思います。

 僕は39歳の時に田中一彦先生という麻酔科医のメンターに出会えました。「養老の瀧」のような安い居酒屋が大好きな、どこにでも普通にいる「人の良いおじさん」に見えます。でも実は初代TDM学会の理事長であり、第1回の国際TDM学会(IATDM-CT)の大会長でもあり、今ではどこでも使っているアルコール手指消毒薬の「ウェルパス」の発案者で、いろんな実力者を知っていました。そこで紹介されたのが現新潟薬科大学教授の上野和行先生。薬物療法や動態はこの厳しい先生の影響で猛勉強しました。

 上野先生に「一緒にやってみよう」と紹介されて役員になったのが、1990年に関西の薬剤師の集まりである「ドラッグフォーラムオーサカ」という非常に個性的な勉強会。メーカーに頼らず勉強会をやることは大変ですが、この会は年に10回も勉強会をやっているのに、特定なメーカーがスポンサーになることはなく、テキストを発行していたため、13万円の広告を4件とって12万円。あとは11000円の参加費を取って資金を作り、日本中から講師を呼んでいました。年に10回の開催ということは、その準備のための世話人会も年に10回。それが終わるたびに安い居酒屋で役員同士で「薬剤師論」を戦わせていました。

 「ドラッグフォーラムオーサカ」の会長は廣田育彦氏(後の関西医大薬剤部長)、副会長は森田邦彦氏(後の同志社女子大薬学部教授)、事務局長が森嶋祥之氏(後の近畿大学病院薬剤部長)、監事が上野和行氏(後の新潟薬科大学教授)、本当にすごいメンバーばかりでした。

 こんなメンバーの中で揉まれて育たないわけがない。とはいえ、すごいプレッシャーやいじめによって、やめていった若い薬剤師も多かったのは確かですが・・・・。年に10回もやるとテーマ探しは大変ですが、ドラッグフォーラムオーサカは参加者に全くこびない、そして特定のスポンサーがいないため、メーカーにも全くこびない。僕が入ったばかりの時、「Polymorphism」について講演会をやろうということになりました。今ではおなじみの遺伝子多型ですね。アセチル化能の個人差の問題はN-acetyl transferaseの遺伝子多型、S-メフェニトインという抗てんかん薬を服用後に一部の患者で起こる重篤な副作用がCYP2C19の遺伝子多型が原因であったことが、このころ話題になりつつありました。でも一般の薬剤師レベルではほとんど知られていなかったし、これに関する雑誌の特集も書物もなかった時代です。テーマは前述のように「Polymorphism」です。「こんなテーマじゃ誰も来ないでしょう。『遺伝子多型が及ぼす薬物代謝能への影響』のような分かりやすいテーマにしましょうよ」と僕が意見を言ったら、「Polymorphismの意味も分からないような薬剤師には来てほしくない」という廣田会長の一言で、この講演会のテーマが決まりました。案の定、40人足らず(そのうち役員が10人以上)という客入りの悪さ。これがドラッグフォーラムオーサカの実態なのです。「月間薬事」や南山堂の「薬局」で特集になったような誰もが考えつくようなテーマは絶対にやらない。逆にこのマイナーなオタクだらけの勉強会にじほう(当時は薬業事報社)の記者が毎回取材に来て、その数か月後に月間薬事の特集が組まれるってこともよくありました。ユニークなオタクの集まりが年に20回も集まって飲み会(実際には忘年会や夏のビヤホールなどを入れると毎月2回は顔を合わせてました)をやるのだから揉まれます。このころ、まともな薬剤師の第1歩を歩もうとしていた僕が影響されないわけがない。この会は2000年以降も続き120回くらいまで開催されたのですが、かつて若手だった薬剤師がみんな大学教授になって去っていき、僕も腎臓と薬物療法に特化した勉強会をやりたくなって第100回の講演会を終えたくらいで退会しました。

  そして僕が立ち上げたのが「関西腎と薬剤研究会」です。最初は大阪中の腎臓オタクの薬剤師に声をかけて20人くらいで病院の会議室でジャーナルクラブでもできたらと思っていたのですが、役員候補に声をかけた全員が2つ返事で参加してくれるとのこと。これはひょっとしたらと思い、120人くらい入る医薬品卸会社の会議室を借りて、第1回の関西腎と薬剤研究会を開催しました。これが2000年の328日のことです。テーマは分かりやすく「腎不全患者への投与設計の基礎」で僕が講演しました。立ち見で入れない人も出て、この腎臓オタクの会になんと200人以上が集まりました。第2回はその後、透析医学会の理事長を2期連続務めた秋澤忠男先生(当時の和歌山医大教授)に講演をお願いして、またも200人近くの薬剤師が集まりました。ドラッグフォーラムオーサカとは異なり「分かりやすいテーマで、できるだけ多くの薬剤師に集まってもらって薬物療法をより良くするんだ」というビジョンで関西腎薬はスタートし、ドラッグフォーラムオーサカと同様、毎回テキストを発行しました。年5回の開催、時には合宿もやりました。神戸や京都に「巡業」もしました。その腎薬は昨年、佐賀腎薬が結成、そして今年は鹿児島腎薬、宮崎腎薬が22番目、23番目の地域腎薬として結成され、現在1700名の学会員が日本腎臓病薬物療法学会を支えてくれています。今回、僕が伝えたかったことは、「病院内に閉じこもっていずに、好きなことを夢中になってできる仲間と一緒に何かやれば、大きな実を結ぶかもしれない」ということです(この文章は熊本県病院薬剤師会の「病薬にゅーす」2016.9.20 Vol.49, NO1に掲載されました)。 20160930_2.png

写真は2人のメンターと僕、左が上野和行先生、右が田中一彦先生、そして真中が平田です(7th International Association of Therapeutic Drug Monitoring and Clinical Toxicology,

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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