~運動と食物繊維の摂取とサ道のすすめ~
熊本大学で働くことになったのが2006年4月、米国留学から帰ってすぐに単身赴任で住んだのが薬学部の斜め向かいの古い宿舎。歩いて1~2分で職場に行ける超便利なところ。だけど仕事が薬剤師と違って大学教員はデスクワークが中心だから、1日に1000歩くらいしか歩かない。しかも昼ご飯は学生たちと一緒に1000kcal以上あるヘビーな昼食を毎日食べていた。人間ドックでの空腹時血糖は105mg/dLと一応正常域だけど、糖尿病予備群になりかけた。この頃に大阪に住んでいる嫁と韓国の済州島に旅行に行って、丘に登った。いつもなら嫁が「あまり早くいかないでよ!」って言われるくらい僕がすたすたと先を歩いていたのに、この時には逆で、先に歩く嫁のあとを追うのがしんどかった。大学の仕事も慣れていないから、というより、もともと頭が良くないから熊大教員としてまともに仕事できるようになるためにはいつまでたっても家に帰れなくなる。結構ハードな毎日で、目を覚ますためにブラックコーヒーを何倍も飲んだ。そしてついにはストレス性の胃潰瘍になって、今もPPIがないと胃がむかつくほど弱くなった。そして単身赴任に疲れ果て心も病んできそうだったので、大阪に住んでいた嫁に熊本に来てもらえるよう懇願した。
単身赴任の約3年後、めでたく夫婦同居となりストレスが解消。うちの嫁はマイナートランキライザーのような人で、僕のストレスをスカベンジしてくれます。そして昼食は嫁が作ってくれる野菜・鶏肉・魚中心のヘルシー弁当。ジムにも通いはじめ、5年前から熊本城マラソンに連続出場。今年は神戸マラソンにエントリー予定。最初は持病の膝痛があったため、歩いて6時間かけて完走(完歩?)だったが、なぜか膝痛が65歳になって全快して、5時間ちょっとで休まず完走できるようになった。若いころは3時間20分前後でいつも走っていたが、5時間かけてゆっくり走るってのは本当に楽しい。練習はジムのトレッドミルで7~20kmを1~3時間かけて歩いたり走ったりと筋トレを週2~3回。ジムに行けない日は歩く距離を伸ばして平均1万歩/日をキープする。週末は熊本では「菊南温泉あがんなっせ」という最高のチムジルバン(岩盤浴)とサウナ・冷水浴(いわゆるサ道*で整える)とともに、10時間以上滞在してたまった未読論文を読み漁る。
学生時代にはお金がなくってというか、親に「お金を送って」って言えない性分だったので、大学の時には暇を見つけてはアルバイトをやっていた。1年の時は18時から24時まで大阪南部合同青果市場で荷物の積み下ろし。休みの日は18時から午前6時まで12時間勤務もしたっけ。ミカンは段ボール箱だからいいけど、リンゴが来ると木箱なので肩が痛い。皮がむけてヒリヒリすることもあったが、市場のおじさんはバンドエイド1枚もくれない。大根が数トントラックで来るとおじさんたちとアルバイトの学生たちが1列に並んで両手に1本ずつ大根をつかんで隣の学生にパスをして市場内に大根の山を築く。それが90~120分は続く。半そでシャツだと大根の葉っぱに負けて両腕が真っ赤になる。とにかく大根とリンゴは嫌だった。その代わり西瓜は重いけど、落とすと割れて売り物にならなくなるから、それをもらって自転車のサドルに縛って下宿に帰ると先輩や同級生たちが大喜びしてくれたっけ。12時以降に下宿に帰って寝て、朝5時半から8時までその青果市場の隅にある喫茶店で時給300円のウエイターのバイト。チャーハンの作り方と接客業を学ぶことができた。大阪、しかも客はみんな八百屋さんなので「お待ちどうさまでした」ではなく大きな声で「おまちどーさん」と言わされた。睡眠時間は4時間ちょっとなので、大学に入っても講義中は睡魔が襲ってくる。成績はとっても悪かった。200人中190番くらいかな?でも留年は親に迷惑がかかるので絶対に嫌だったから再試にはめっぽう強かった。
オイルショック前の夏休みまでは帰郷して広島県の呉市に帰ったら、呉市は重工業の町で景気のいいときだったので、日新製鋼で1日12時間労働して5000円もらっていた。当時の物価はJRの初乗りが30円、お好み焼きが100~200円、大阪薬科大学の学費が年間21万円(私学の薬学部で一番安かったから僕でも行けた)だったので、この当時の5000円は破格の大金だった。日新製鋼での仕事は、できた鉄板をコイル状にして大型トラックに載せる前に、そのコイルが元に戻ると大事故になってしまうのを防ぐため、鉄のワイヤーで縛りつけるのが僕の仕事。そんなに疲れる仕事ではなかったので、これは割が良かった。「平田君、今日は人手が足らんけん、連勤してくれんかのお」といわれると喜んでやった。連勤ってのは36時間連続勤務で、今ならブラック企業と言われかねないが15000円の大金を仕事が終わるともらえる。真夜中の2時間だけ休みがもらえるので鉄板でできたコイルの中でヘルメットをかぶったまま丸まって寝た。これで貯めた10万円はステレオと冷蔵庫を買うとほぼなくなった。このころの家電製品は高かったのだ。2年の時にはオイルショックでトイレットペーパーはなくなるわ、洗剤は売り切れるわの昭和で有名な大騒ぎがあり、物価はうなぎのぼりだけど景気は冷え込んだ。2回生になるとたった1年しかたっていないのに、呉では仕事が何もなくなった。仕方なく呉駅近くの職安の前で待って土方の仕事にありついた。でも夏休みの猛暑時にドリルだけならまだしもツルハシやシャベルを使っての炎天下で手作業の穴掘りの土方仕事はきつかった。1日5000円だが、2日は休まないと体力が回復しない。
仕方なく大阪に戻って京屋マネキン(いまはKYOYAというおしゃれな会社になっているみたい)で三宮のデパートや名張のダイエーなどの模様替えを閉店から朝までかけてやったり、お歳暮シーズンには薬科大学前の運送屋の運転助手もやった。ラジオから流れるイルカさんの「なごり雪」を助手席で聞いたのを思い出す。ガスタンクとその蓋の溶接がうまくいっているかどうかをレントゲンでチェックする仕事は被曝する危険性があるので高給だった。このレントゲンの職場は門真にあって、いつもは本職の人の助手として車の乗っていろんな溶接工場に行くのだが、ある日、「おう、平田君、今日は玉出まで出張してくれへんか?」といわれ、地下鉄に乗って玉出まで行くのだが、作業服に安全靴、ヘルメット姿を同級生に見つかると恥ずかしいので、ずっと下を向いていたっけ。1,2年生の時にやったアルバイトの種類は約30種類。ようやく3年生になってから家庭教師という楽で結構稼ぎが良い仕事が見つかった。教えるのはうまかったので中学3年生を教えて、望みの高校に受かったので、高1になってからも続けさせてもらった。週1回2時間で1月12000円、時給としては最高で、しかも安定している。これは大学を卒業するまで続けさせてもらった。
今でも青果市場や日新製鋼や真夏の土方のことを思い出す。みんなが寝ている真夜中に「なんで俺だけ、こんなに働かなくっちゃいけないんだろう」と思うと情けなくって泣きそうになったことを(実際には絶対に泣かなかったけどね)。でも今、締め切り地獄になっても、あきらめず、めげずに30冊近くの本を書き続けることができたのは、このつらい経験(20歳代のころマラソンをやったのもよい経験だったのかもしれない)のおかげで神経がかなり太くなったからじゃないかなと思っている。以前に偉い人が言っていた。「学生は勉強をするのが仕事。アルバイトなんかするもんじゃない。勉強に打ち込め!」と。僕は他人の言動に影響を受けやすい。アルバイトする代わりに大学の図書館に入り浸って勉強していたら、落ちこぼれることなく、もう少し早めに芽が出る薬剤師になれたかもしれない。それもすごくわかるが、そうできたのなら誰も苦労はしない。この昭和48年から52年の4年間は親に甘えるな!死ぬまで働け!」という平成の子には理解できない、昭和の美徳がもてはやされる時代だったんだ。
2006年に熊本に来て、抄読会のメリットを伝えたかった。毎週火曜日の夜7時半には必ず抄読会か育薬セミナーがあるのが普通になりました。12年間でほぼ500の論文を読んだことになります。昨年までは月間薬事に毎月2つの論文の要約とコメントを連載していました。
抄読会の効用は
① 英語力(医学・薬学英語)が身に着く
② 飛び切り最新の情報(ガイドラインが作られる前の生の情報)が身に着く
③ 知りたい情報を検索して、自分で解決する能力が身に着く
④ 文献に対する評価・批判が身に着く
(この論文はここがすごい、この論文は方法をこうしたらもっとレベルの高い論文になるのに…などです)
などがあげられます。
③に関してはPubMed検索して、入手できる論文はPDFで入手し、カテゴリー別に分類保管し、学会発表や論文を書く時の引用文献になるかもしれませんし、新しい研究テーマにつながるかもしれません。この先々、プレゼンで使える図表をパワーポイントで作成したり、入手できないものは抄録だけでもコピペして訳す。これで速読術も身につき、白鷺病院時代には100本のPubMedの要約を60分間の通勤時間で訳せるようになりました。とにかく、薬剤師として1つの壁を乗り越え、確実に実力が身につきます。それと僕らの世代では習っていない⑤ 統計学が身につきます(僕はあまり得意ではありませんが、今でも少しずつ進歩していると思います)。
ただしこれらはすべて継続していればのことです。熊大でやっていた抄読会に参加した経験のある方は非常に多いです。すっごい意気込みを持って「参加したい」言ってくる先生方もいらっしゃいますが、ずっと続けて参加していただけた先生方はわずかです。自分からプレゼンしてくれる先生はやはり違います。その中に温石病院の森 直樹先生がいらっしゃいます。この先生は12年以上前からずっと参加してくれています。今や誰もが認める立派な薬剤師ですね。僕も気が付けば40年以上、途切れることなく抄読会に参加してきたことになります。まさに「継続は力なり」だと思います。
写真:おそらく500回目?熊大最後の抄読会
先生方、抄読会って知っていますか?参加されたことはありますか?僕がいまここまで頑張ってこられたのは抄読会のおかげといっても過言ではありません。大阪の白鷺病院に就職した直後、これまで使われていた酢酸透析液から、世界で初めてアセテートフリーの透析液を使って多人数同時透析を行いました。その当時の白鷺病院はLの字の形をしていて、スタッフから見て左側20人くらいは従来の酢酸透析液、右側の12人は重曹透析液を使ってい始めたのです。その当時の透析は膜の性能が良くなかったために中空糸型透析器で5時間、古いタイプのコイル型で6時間かかっていました。朝の8~9時に穿刺して食事時の12~13時になると酢酸透析液側では酢酸不耐症でしょうか、嘔吐する人が多発し、洗面器に入った吐物を処理するために新人である僕はトイレと透析室の間を走り回っていました。かたや重曹透析液ではみんな安らかに眠っており、明らかに患者さんの負担が軽減したなと感じました。
重曹はもちろん酢酸に比べ生理的ですが、でもなんで酢酸を使うと血圧低下やショック、嘔吐が起こるのかの理論武装はできていなかったのです。そこで新人で、数少ない大学卒の僕たちは抄読会で酢酸に関する論文をありったけ集めて訳させられました。これが白鷺病院の抄読会の始まったきっかけでした。当時の院長から「平田の訳は日本語になっとらん!」とよく叱られたものでした。これが僕の抄読会のデビューでした。
英語が楽に訳せるようになったのは、翌年、自分で初めて臨床研究し、学会発表した時です。僕は薬学系の学会に初めて参加したのは40歳になってからですので、卒業したての頃は医学系の学会で発表していましたので、医師からどんな質問が来るのか怖くて、そのテーマに関する英語論文20本を取り寄せ、毎日1つずつ訳していきました。英語の苦手な僕には大変ですから、1語1語、辞書で引きながら全訳していたので、1つの論文を読むのに0時過ぎまでかかっていました。でもなんと不思議、同じようなテーマの論文を読んでいくと辞書が要らなくなるので数日後には11時、1週間後には10時には帰れるようになりました。こんなふうにして英語力は身に付くものだと知りました。おかげで、英語論文や外人の英語の講演などは自分の得意分野であれば100%理解できるようになりました。もちろん日本語でもさっぱりわからない分野の話は当然、日本語でも英語でも分かるわけがありません。今でも新聞や小説、雑誌はほとんど読めませんし、映画やテレビは内容によって50~80%くらい、学会でも英語の質疑はわからないことがあります。プロ野球での外人選手のインタビューもほとんどわかりませんが、不思議とラミレス監督の英語や、トランプ大統領の英語は非常にわかりやすいです。Native speakerと医学用語を話すと外人さんの方が医学用語を知らないので、僕はずいぶん偏った英単語のみよく知っているのだと思います。
抄読会は医局のドクターはみんな経験しているものです。その医師の抄読会に入ろうとしても聞くだけでは仲間に入れてくれないかもしれませんが、自分も順番の中に入って訳すといえば、抄読会はたいてい当番制なので、みんな自分の当番が回るのが遅くなるためいつもウエルカムでした。受け身じゃダメなのです。参加するだけではなく自分も訳してプレゼンしなくては!だから白鷺病院だけでなく、大阪市立大学の内科や泌尿器科、府立病院の腎臓内科などの抄読会にもよく参加させてもらったものでした。「薬剤師だからだめなんだ」と言われたくないから、とびっきり新鮮で面白い論文を探して訳したものでした。医師の抄読会は医師の考え方が分かるからとても新鮮で勉強になりましたし、それは今でもよい経験だと思っています。40歳になって病棟業務ができるようになってからは白鷺病院の医局と薬剤科と両方で抄読会・症例検討会に参加していました。
2018年の暮れに2019年6月にブダペストで開催されるEDTA-ERA(欧州透析・移植腎臓学会)に参加を決意。また英会話力を取り戻そうとしました。実際に学会に参加してみるとインド系の英語の聞き取りは苦手でしたが、英国人の英語は米国英語よりも聞きやすく、スライドがあればほぼ100%理解できましたが、ディスカッションでは英語とはいってもいろんな国の訛りがあるので、何を言っているのかよく分かりにくかったです。ポスターセッションでのディスカッション
は同行した長崎光晴病院の成末まさみ先生がとっても積極的で、頑張ってディスカッションに努めており、僕も彼女の影響を受けて負けずに話しかけてみました。
写真右:EDTAの学会会場で
写真左:ブダペストでの妻との夕食(ほとんど野外です)
最近はいい教材が増えています。とにかく忙しい僕は英会話教室なんか行ける時間がない。そこで独学でおすすめはDUO 3.0/CD復習用、ALCのキクタンで例文音声+チャンツ付きのCDまたはオーディオブック(アマゾンプライム会員は月に1本のオーディオブックが無料になります)を自分の英会話レベルに合わせて(DUOやキクタンAdvancedは英検2級~準1級レベルだと思います)、通勤時間などや車の中やスマホで聞くのがよいでしょう。キクタンシリーズにはキクタンメディカルもあり、薬剤編もあります。コルヒチンの発音は実はコルチシンだって知っていましたか?Colchicineって綴りですからコルチシンは多分ドイツ語読みですね。「トシ、聴くだけであなたの医療英単語が100倍になるCDブックよ。」も聞き流すだけで医療英語に強くなれます。アマゾンプライムの会員ならグレイズ・アナトミーGrey’s Anatomyという医療ドラマがおすすめ。日本語字幕、その後、英語字幕にする、字幕なしで見るなんて工夫してもいいでしょう。上級者はNew Engl J Medのポッドキャストをiphoneで聞き流すのもいいでしょう。あとは会話の練習ですが、DMM英会話などのオンライン英会話のコスパがいいと評判いいみたいですので(全くやっていませんが)、僕もできれば2020年のミラノで開催されるEDTA-ERAに行きたいと思っていますし、こんな目標をもって英会話能力をアップすることに取り組んでみたいと思います。
白鷺病院に就職したころ、職場は英会話ブームでした。初代院長は研究がやりたくて白鷺病院を作った人です。世界初の多人数同時透析をアセテートフリーの重曹透析を使って行い、その研究成果を英語論文にして国際学会でせっせと発表する気運が熱かった時代です。その当時はめずらしかったいわゆる外人講師を病院に呼び、簡単な日常会話を覚えました。
その時に英会話をしてよかったなと思ったのは、外人と話をしていると言葉は違っていても考え方は同じ、みんな人間は同じなんだと気づいたことで、外人(白人)コンプレックスが解消されました。だけどあまり熱心ではなかったので思ったことを話すまでの英会話能力には達しませんでした。
そして僕は結婚し、子供ができたけどお金が全くなかった35歳のころ、微量元素に関する英語論文を書き、国際学会で口頭発表するために英語論文をチェックしてくれる外人を探していました。このころはリーズナブルな英文作成会社がなかった(知らなかった?)ので、当時の大阪市立大学の内科の教授に英国女性を紹介していただいて何とか発表したのを思い出します。このことをきっかけにもう1度英会話をやり直したいと思いました。まずはお金がなかったので、ラジオ英会話を基本として続けましたが、せっかく覚えたフレーズも使わなくては自分のものになりません。子供の絵本を借りるために通っていた大阪市の住之江区図書館で、英会話サークルが週1回2時間で月に2,500円と格安でやっているチラシを見つけ、さっそくそのサークルに入会しました。その講師の先生が22歳で結婚したてのオーストラリア女性、シャロンさんでした。なんと超美人でスタイル抜群、それにまして性格がすごくいい。男性だけでなく女性にも好かれるいい人でした。今まで、外人といくら話してもあまりやる気にならなかったのですが、シャロンと会話をしたい一心で様々なフレーズを覚え→シャロン相手に話すと、そのフレーズが通じちゃう→シャロンがホームパーティーをするときに大勢の外人の中に混じって招待されることもあって、どんどん英会話に没頭。こんな感じで、ますます勉強するという好循環がぐるぐる回るのでした。僕だけでなく、ほかの女性会員も男性会員もみんなシャロンを好きになって、みんな英会話教室が終わってからもファミレスで1時間以上雑談をしたものでした。この時の英会話教室のレベルは一気に上がりました。I’ve been dying to see you.と覚えたてのフレーズを言うと、シャロンもI’ve been dying to see you, too, Mr. Hirata.と返してくれ、通じるととにかく楽しくてたまらない(お互い既婚者なので、この会話は冗談ですよ)。英会話が終わって毎日時間があれば英会話、ウォークマンで「やさししいビジネス英語」(実は全然やさしくないNHKのラジオ英会話)を聴きながら通勤し、子供たちをキャンプに連れて行っても、寸暇を惜しんで英単語を覚える。すぐに英検2級に合格、その1年後には準1級に合格。この時には当然、英検1級を目指して、その参考書をたっぷり買いこみましたが、シャロンが突如オーストラリアに帰国・・・。その後任は名前も忘れた若いイギリス人男性・・・。とにかく英会話教室に行ってもシャロンがいないので全くやる気にならず、英会話力の伸びが突如停滞し、1~2年で英会話をやめてしまいました。これが37歳の頃だと思います。何とかその時の余力で50歳になってオレゴン留学を果たしましたが、英会話能力はそんなには伸びませんでした。
1月22日に紹介した「全然似ていないけれど、だれかがすぐにわかる似顔絵」を描いた現4年生の内海は実は絵はとても上手だった。遅ればせながら、3月の卒業式で卒業生のために描いたミッキーをお見せします。たった2か月で「内海はこんなにうまく描けるようになりました」ではなく、内海はもともと絵がうまかったということですね。
それにしても平田の顔をリアルに描いてくれなかったことに感謝いたします。
でもその楽しいクラブの幹部生活(通常はつらいことの方が多いらしいのだが)を終えて4年生になると研究室に配属される。チャキやノムさんたちと話す機会は少なくなってきた。卒業式には「ずっと友達でいようね」とお互い、3人で約束したが、チャキは大阪の、ノムさんは徳島の大手製薬メーカーに就職。僕は漠然と薬剤師になりたかったため、薬理学の教授に勧められるまま白鷺病院という当時、医師3人、病床30程度の小病院に就職した。
仕事中心の生活になると連絡を取ることを忘れていたが、風のうわさにチャキもノムさんも結婚し、子供を授かった。小さな子供の母になった2人は同窓会に出て来られず、20年が過ぎた。40歳を過ぎたころから僕は「透析患者の薬物適正使用」のテーマで薬学系の学会で遅ればせのデビューをし、発表するようになり、論文や書物も書くようになったので、少しずつ社会に認知されて各地で講演することが出てきた。そのうち徳島大学の大学院の非常勤講師を務めるようになって、年に1回、子育てを終えたノムさんに会えるようになった。講義が終わると一緒に食事して昔話を楽しんだものだった。この間、チャキは時々僕に手紙をくれた。でも卒業後にキリスト教に夢中になったチャキの手紙やクリスマスカードは入信を直接勧めるものではなかったが、無宗教の僕にとって「あまりありがたくない手紙」だった。それでもチャキが送ってくれた三浦綾子の「塩狩峠」を読んで涙もしたが、聖書を送ってくれると少し困った。生涯の男女を超えた友達であったはずのチャキと会って話をする機会を自分から作ろうとしなかったために、再会は偶然を待つしかなかった。
50歳近くになって大学の構内で講演会があって、講師として話すことになった。その時の講演会を終えて、「平田君」と観客の中からチャキが僕に声をかけてくれた。ほぼ3 0年ぶりの再会だった。懐かしかった。彼女は気を使って宗教の話はしなかった。そして茨城駅まで外車で送ってくれた。BMWだったかアウディだったか忘れたけれど、生来、器用な人と思っていたチャキの運転は恐ろしく下手だった。でもそれすらかわいく感じた。たった1時間程度の出会いだったけれど、これから「一生の友達」としての付き合いが始められるとその時は思った。
その2年後、チャキががんで亡くなったことを大阪に住む同級生のケメちゃんが電話で教えてくれた。その半年前からチャキの余命は長くないことが分かっていたらしく「なんで教えてくれなかったの?生きているうちに会えたのに」とケメちゃんを攻めたが、「平田君は一番チャキと仲良かったから、教えると一番苦しむんじゃないかと友達と相談して連絡しないことに決めたの」という配慮だった。僕は仕事が入っていたため、お通夜にも葬儀にも行けなかった。生きているうちに話をしたかった。ケメちゃんが会いに行った時、死亡宣告されてすっかり弱っていたのにチャキは無理に笑顔を作っていたらしい。ケメちゃんからチャキの死を聞かされてもその時は不思議と涙は出なかった。でも葬儀のある夜、講演を終えてホテルに帰って、1人になると思いだして嗚咽した。
学生時代のことを思い出すと、苦しかった時に友達や先輩たちがそばにいてくれていたおかげで今の自分があることを思い知らされる。
チャキは歌が上手だった。そし僕たちの時代は誰かが部室で弾くギターに合わせて、井上陽水やかぐや姫などのフォークソングを一緒に歌ったものだった。彼女は3度上のハモリがとてもうまかった。クラブの合宿で余興をするときの司会もとびきりうまかった。いろんなゲームを知っていてみんなを盛り上げるのがうまかった。あか抜けていてファッションも学生としては少し派手めで、普通よりちょっと器量のよい子だけど、どちらかというと素朴な人が好きな僕の好みではなかった。チャキも僕のことを異性として感じることもなかったから、彼女も「ねえねえ平田君」とよく声をかけてくれた。だから同級生として普通の付き合い方ができた。というか、異性を感じなかったからこそ話がしやすかったので、僕はチャキとなら何でも話ができるようになってきた。そして古美研に入ってからの2人の共通点は1年生の時、建築班に入って五重塔が好きになったこと。そして3年生になるとクラブ活動を引っ張っていく幹部になる。頼りなかった僕でも古美研の活動グループの仏像班、庭園班、建築班などのいずれかのリーダーにならなくちゃいけない。僕は頼りなかっただけでなく、もともと性格的に浮き沈みが激しかったため、少しテンションが上がると調子に乗って人を傷つけることがよくあった。空気の読めない僕は、知らず知らずのうちにこれをよくやっていた。チャキはそれに敏感で急に話をしなくなることもあったが、鈍感な僕は「なんで黙ってんの?」と聞くと「平田君、なんでそんなこと言うの?私、平田君の言ったさっきの言葉で、傷ついてるんだからね」と言ってくれた。僕は何度もチャキを傷つけたが、ちゃんと謝ると許してくれ、チャキが僕の失言を大目に見てくれるようになったのか、僕が学習して失言しなくなったのか、どちらかわからないが、そんなことがあるたびに信頼しあえる友達になっていった。そして五重塔を研究するために一緒に建築班をやることになった。チャキもそしてその友人のノムさんも五重塔が好きだったので、一生懸命勉強した。どうやったら五重塔を楽しく学べるか、好きになれるかを話し合った。3人で一緒に梅田の旭屋、紀伊国屋に行って五重塔の本に関する本を立ち読みし、その一部を買った。その帰りに一緒に、辛いインディアンカレーを汗をかきながら食べた。ノムさんにはその当時、彼がいた。部長の山田だ。チャキもほかのクラブの先輩と恋に落ちたという話もうわさに聞いた。でも友達と割り切っていたので、それ以上聞こうとはしなかった。
幹部のメンバーがまとまっていたので、後輩たちも五重塔が好きになってくれ、その時のクラブでは建築班が一番活気のある班になった。「今までと同じことはやめよう」とチャキとノムさんに提案すると面白そうに同意してくれた。7月には前例にない建築班だけの合宿をやった。少し時間のかかる海住山寺の五重塔をメインに、ライトアップされた夜の興福寺を堪能したし、自然の残った浄瑠璃寺・岩船寺のコースにも行った。飛鳥時代の技法で建築途中の法輪寺の三重塔の内部の写真を撮らせてもらいに行ったこともある。精巧な薬師寺三重塔のプラモをみんなで一緒になって作った。いつもは建築班のみんなで行く見学会も、最後の見学会は2人ずつのペアになってそれぞれが見たことのない三重塔や五重塔を見に行った。班が解散する前には全員で、手作りの文集を作った。このころになると僕も子供から大人になってきたからか、楽しいだけではなく、アイデンティティのある人間、つまり自分で考えたことを実行に移すことができるができるようになった。チャキもノムさんもいつも僕と一緒にオリジナルなことを考えていたし、建築技法だけでなく、なんでこの塔は魅力的なのかが大事だと思っていた。お互いの意見を否定せず、前向きに話し合うと何をやってもうまくいくし楽しかった。このころのチャキと僕は他の同級生もみんな認めるペアになっていた。まさに恋愛感情のない、ピュアな異性の友人になれたんだと思う。
夢中で仕事をやってきた。そして定年間近の64歳になった。教員をやってきたから学生から悩みの相談を受けることもある。僕は学生時代の経験から、がんばれ!とはいえず、「ストレスに押しつぶされそうになったら、これから頑張れるようになるためにも、今は少し休んだ方がいいかもしれないね。それと何でも話の出来る友達や先輩に相談してみるのもいいよ。」ということが多くなった。「近頃の学生は脆い、メンタルが弱い…」、ととやかく言う人がいるが、いつの時代も学生は大変なのだ。僕の学生時代を思い出してみても一見、華やかなように見えていて、内心では心が激しく揺れ動いていた。こんな時代に出会った友達は何かしら同じ苦労を共有しているから、久しぶりに会うと昔話に花が咲く。一生の友達になれる。でもその大切な僕の友達のうち、数人は悲しいことに亡くなっている。
実は僕は広島での高校時代、人前で話すことが全くできなくって、3年間、一度も女子とまともな会話ができなかったし、クラスで一番シャイな学生だった。これは極めて運動音痴、方向音痴、記憶力が鈍いことなどが、「何をやっても人の迷惑になる」という過度の不安につながって負のスパイラルに陥ってしまったことによるものだろう。このころの僕は頼りなく、リーダーシップをとれないどころか、人前に出て「失敗したらどうしよう」とネガティブに考えてばかりの少年だったのである。廊下に女子がかたまってワイワイガヤガヤしていると、その先のトイレに行きたいときも彼女たちを避けて、遠くのトイレに行っていたものだ。
大阪に出て下宿生活(風呂なし、共同トイレ、共同炊事場のほぼ長屋のようなもの)をすると共同生活のようなものなので、こんな極めておとなしい男の子にも、地方出身の友達ができるようになった。そして先輩たちが何も知らない僕にいろんな情報を教えてくれた。うれしかった。そして僕の同郷の広島の先輩から勧められるがままに古美術研究部、略称、古美研に入部した。そして古美研に入ると優しくて、あるいはかわいくてあこがれた女性先輩たちが僕に話しかけてくれて、少しずつ僕の「女性恐怖症」は緩解し、不器用ながらにも女性と話ができるようになってきた。そして同級生の女子とも。真っ暗だった高校時代の僕におさらばできる転機が訪れたと思った。
学生時代、特に3年生のころ、クラブの仲間でよくやっていた論議、「異性どうしの友達は成り立つか?」これには様々な考えがあって1つにはまとまらないが、僕には学生時代に異性の友達がいた(恋人ではない)。本名は「さきこ」だけれど、みんな「チャキ」と呼んでいた。入学時からいつも多くの友達に囲まれていて、笑いがあふれる会話をしていて、僕のようなおとなしくて「もてない君」の寄せ集めのようなグループにとっては交わりあうことのない、いわゆる「高嶺の花」のようなイメージを持っていた。このチャキがなぜか古美研にやや遅れて入ってきたのだ。