モーリシャスを看護師Annと廻る~人命救助に関わった~
インド人看護師のAnn(写真8)と知り合ったのは僕が「糖尿病の食事と血糖管理」の講演後のことでした。「内容は素晴らしいのに、なんで日本語だけなの?ピースボートの英語通訳をつけたらいいのに」と言って話しかけてくれました。その後、Annは日本語通訳をつけて英語で講演をしたのですが、いくら英語の堪能な通訳でも「ヘモグロビンA1c」とか「血清クレアチニン」「インスリン抵抗性」などの語句は分からないので、おかしな翻訳になっていました。そこで僕が代わりに通訳をしたのです。彼女はインド人なので、インド訛りの英語は僕は得意ではないし、僕は英語新聞も小説も読めないし映画も字幕がないとほとんどわかりませんが、医学用語に関しては国際学会などで腎臓病や糖尿病の英語講演でもほぼ100%分かるので、問題なく翻訳することができ、親交が深まり、一緒に食事もするようになりました。
聞くところによると彼女は西ドイツで看護学を学び(これだけで年齢がだいたい予測できますね)、その後、カナダで心理学の学士号を取得し、そのままトロントに住んでいるそうです。彼女はモーリシャスに行くにあたって、僕に一緒に行かないかと誘ってくれました。なぜかというとモーリシャスにはインド人がとても多く、現地の人と間違えられるのが嫌だから日本人のスミオと行きたいんだということでした。もちろん僕の妻も一緒に3人で行く予定でしたが、突然の下痢・嘔吐で行けなくなったので、他の日本人4人とともに滝、7色の砂、ビーチ、ポートルイスのショッピングモールに行くことになり、6人なので1人20USドルという格安で7人乗りのトヨタのタクシーに乗りました。モーリシャスのビーチはとてもきれいな海でしたが、魚は全く見えず、69歳にしてスノーケリングではなく、ただの海水浴だけをすることになるとは・・・・。ああ~、疲れました。
ショッピングモールでタクシーを降りて、1人20ドルずつ集めていた時に、運転手が何かに気づき、海岸に走っていきました。そこでは誰かが溺れていたらしく、男の人たち数人で引き上げているところでした。この時のAnnの行動は素早く、横向きに寝かせて背中をたたくと(図1)、救助された男性の口や鼻からおびただしい量の海水が出てきました。そして仲間のバスタオルを借りて枕にして、「Call the ambulance!」と、群がる人たちに救急車を呼ぶように指示。僕は溺れた人の救助法は知らなかったのでAnnの指示に従い、頸動脈、手首で脈診があるのを確認、呼吸も正常でしたが10分経っても口や鼻から海水が出てきており、大声で耳元で「Are you OK?」と繰り返しましたが意識はなさそうです。救急車がかなり遅れて到着すると救命救急隊員がSpO2を測るためにパルスオキシメータをなんと親指に装着。「何やってんだ」と人差し指に付け替えるとSpO2は98%と出て、Annと「よかった。大丈夫だ。」と笑顔になり、あとは救急隊員に任せました。後で聞くところによると海水に転落した人は海上の警備員で、海に落ちないようにつないである鎖(写真9)に腰掛けようとして、後ろ向きに海に転落したのだそうです。
モーリシャスは17世紀に絶滅した飛べない鳥「ドードー」がいた島として有名です。ドードーの祖先はアフリカ大陸やマダガスカルから飛んできたらしいのですが、この島には天敵がいなかったので、どんどん大型化して飛べなくなってしまったのだそうです。大きさは七面鳥ぐらいで、体重が25キロもあったらしいです。ヒトが絶滅に関与した鳥として有名なニュージーランドに生息していた飛べない大型鳥ジャイアントモアは、最大で約3.6m、体重は250㎏ほどあったとされていますが16世紀か19世紀にマオリ族による乱獲によって絶滅したと言われます(図2)。モーリシャスはマダガスカルから近いのに、アフリカでは有数の豊かな国で、治安もよかったです。それに急角度の勾配の山が多く、トレッキングを楽しむにはとてもいいところですが(写真10)、滞在時間が短く、十分な時間が取れなかったのがとても残念でした。
インド洋を東に行き、マレーシア、シンガポール、深圳から日本に
モーリシャスのポートルイスを出るとインド洋を通ってマレーシアのペナン、シンガポール、中国の深圳に寄港しますが、これらは乗客が降りるための寄港と考えてもいいでしょう。だってこれらの中国系の乗客の方々は500人以上はいますので。
神戸から出発してこれまでの期間、僕は「平田の健康長寿塾(写真11)」と「ギター弾き語り‘70(写真12)」をそれぞれ、10回以上開催し、どちらも好評を得ました。ギター弾き語りをやる日本人はかなり多いのですが、塚本さんとぼくの特徴は英語の持ち歌が多いので、Simon & Garfunkel SpecialやThe Beatles SpecialやEnglish songs Specialなどで1時間のライブで約20曲を演奏し、これらはシンガポール、マレーシア、香港の英語を話す中国系の方々に大好評でした。The Beatlesに関しては30曲以上のレパートリーがありますので、リクエストに応えることもできるようになりました。僕はギターも歌も自信がなかったのですが、偶然、高音部・低音部で覚えている曲はうまくハモれることもあり、リードギターを弾きながら、渋い声で歌う師匠の塚本さんとやっていると、僕もギターや唄がうまくみえるらしく、「今日のライブ、よかったですよ」と声をかけてくれる人たちがいてくれて、うれしくなりました。
ということで106日間の長い世界一周の旅が3月28日の神戸で終えることになります(図3)。この間に論文をメールを介して4本書きましたし、3月31日には早速、横浜での薬学会で企業セミナーで「透析導入を防ぐための薬剤師の役割」についての講演です。帰国したらスイッチを音楽から薬剤師に戻して頑張ります。でもギターも続けようと思います。また六甲山に登りたいし、神戸の街を2~3時間かけてゆっくり走りたいです。
◆ 平田純生: 腎疾患におけるTDM. 臨床検査2024年4月増大号「AKI・CKDの診断・治療に臨床検査を活かせ」2024
◆ 平田純生: 7.便秘症. 月刊薬局 ストップCKD「腎臓を守る包括的な視点」月刊薬局2024年4月号
◆ 平田純生: 腎障害患者へのNSAIDs,アセトアミノフェンの考え方. 月間薬事「“何となく”では終わらせない 病棟で出合う疼痛への薬物療法」月間薬事2024年6月号
◆ 平田純生: CKD患者の鎮痛療法の新時代. 扶桑薬品BP.up-to-date新連載「透析導入を防ぐための薬物療法について考える」全12回の第1回. 2024年6月掲載予定
サファリを楽しんだポートエリザベス
ケープタウンを出港して翌々日の2月28, 29日の2日間はポートエリザベスに寄港です。港には何千台もの新車が欧州への輸出を待っていました。聞くところによるとポートエリザベスではフォード、フォルクスワーゲン、いすず、トヨタが車を生産しているとのことでした。ここは2日間の停泊のため、広大なワイルドサファリでアフリカの様々な動物をたくさん、自然のまま見ることができます。2日目は前もってアッドエレファント国立公園に行くことに決めていますので、初日はポートエリザベス港を出ると観光ガイドでいいツアーを捜して、価格を聞いて、どこに行くかを決めます。結局、妻が大の動物好きなので、1人8000円の観光タクシーに乗って日本のサファリパークをより本格化したようなKragga Kamma Game Parkと街巡りのツアーに行きました。シマウマ、アフリカンバッファロー、白サイ、キリン、ダチョウ、スプリングホック、イボイノシシ(ライオンキングのプンバァ)、インパラなどを野生の姿を、そのままで見ることができました(写真1)。スプリングホックは南アフリカの国の動物に指定されていて強豪ラグビーチームの名前に使われているそうです。あまり強そうではないですね・・・・。アフリカでは草食動物:肉食動物の数の比は1000:1だそうで、ここにもライオンやチータがいるのですが、昼間はブッシュの中で寝ていて見れませんでした。ちなみに肉食動物は檻に囲まれていて、エサを与えられているので全くの自然な形では遭遇できません。ライオンは3頭いるらしいのですがウクライナから運ばれてきたとかで、戦争のために動物園どころではないのでしょうね。
2日目は前もってネット予約した半日アッド エレファント国立公園サファリのツアーです。ここは国立公園というだけあって広大で本格的ですし、もともと象の保護区なので、昨日見れなかったアフリカ像はたくさん見ることができました。この日は暑かったので、象は水ベに集まって、水を飲んだり、水を身体に浴びて涼んでいました(写真2)。像の数は大変多く、車を止めて、社内から観察するのですが、像が移動するときに車に近寄ってくることがあります。怖くて思わず悲鳴を挙げそうになるのですが、運転手から「危ないから声を出さないで!」と叱られます。 牙のあるオスのアフリカゾウはとても凶暴なので、車に近づいても決して声を出してはいけないのです(写真3)。“”ビッグファイブ“”と呼ばれる大型動物とはライオン、アフリカンバッファロー、サイ、ゾウ、ヒョウですが、ライオンやヒョウは木陰で隠れて寝ているのでここでも見れませんでした。1時間ちょっとかけて街に帰りつく前に見た広大な大地にはすべてトタン作りのスラムがありました(ただし後述のマダガスカルと異なるのは電気が通っており、パラボラアンテナがついていたことです)。運転手が自嘲気味に「All black, no money」と言っていましたが、アパルトヘイトが終わり、アフリカでは裕福な国の方だと思っていたこの国でも、まだまだ黒人の方々の暮らしはとても貧しいことに気づかされました。そしてその近くには同じく広大な墓地がありましたが、COVID-19による死者のお墓なのだそうです。ケープタウンで見た裕福できれいな街並みとは大違いでした。ポートエリザベスでもネルソン・マンデラさんの人気は高く、ゆかりの建造物が多くありました(写真4)。ここのお土産としてはルイボスティーが有名ですが、ピノタージュという赤ワインは日本に入ってこないので貴重だそうです。
バオバブの木のあるマダガスカル、だけど極貧の世界を目の当たりにした
ピースボートはいよいよインド洋に入り、強風と強い波の中を揺れながら走り、3月5日、6日の2日間、世界で4番目に大きい島、マダガスカル島のトゥリアラ沖に投錨しましたが、遠浅のため停泊できません。イースター島の時と同様、2日間に分けて1回100人足らずに分かれてテンダーボートに乗って上陸することになります。ここで今までになかった光景に出くわしました。マダガスカルの人々が小さなボートや帆掛け船など、決して立派ではない小さな船でクルーズ船に近寄ってくるのです(写真5)。何のために来たのかというと、食べ物や船室のアメニティの石鹸、使い古しの衣服などをせがみに来たのです。
マダガスカルはサン・テクジュペリの書いた「星の王子様」に登場するバオバブの木が有名ですが、それを見るために上陸すると、藁やトタンでできた、おそらく電機も水道もない非常に貧しい家がほとんどでした(写真6)。世界でも最貧国の1つ、物乞いも多いですし、15歳以下の子供の人口が48%を占めており、広大な平野があるのに、畑ではなく荒れ地になっています。サトウキビやフルーツ、コーヒーなどの農園や酪農になんで使わないのでしょう?この国に大事なのは子供たちの教育なのかもしれませんが、マダガスカルは、国民の約79%が1日1.9ドル以下で生活しているという極貧状態にあり、慢性栄養失調率が世界で4番目に高く、5歳未満の子供の40%が発育障害に苦しんでいるそうです。バオバブの木を見ることはできましたが(写真7)、主要な港なのに全く華やかさのないトゥリアラの貧しさが心に残りました。いろいろと考えさせられた2日間でした。
8日間かけて大西洋を通って2月24日にはアフリカ大陸の砂漠の国ナミビアのウォルビスベイに到着しました。この港はアフリカの内陸国のジンバブエやボツアナの輸出入港としても重要なのだそうです。ここのナミブ砂漠は世界最古の砂漠らしいのです。サハラ砂漠はもっともっと新しくできた砂漠なのです。ここでは英語学習を兼ねて現地の人たちとコミュニケーションをする課題付きのオプショナルツアーに参加しました。ピースボートのスペイン語・英語の講師のAliとドライバー兼ガイドのHennyと、みんながジープと呼んでいる4WD(すべてトヨタか日産でサンドバギーとして使うにはタフな日本車がいいのだそうです)に分乗して出発です(写真1、2)。
まるで他の惑星に来たみたいな荒涼とした大地Moon landscapeを車で約1時間走ったのですが、この場所はSF映画で火星や月のシーンを撮るためによく使われるそうです(写真3)。砂漠でカメラやスマホに少しでも砂が入ると故障の原因になるので、特に砂丘ではジップロックに入れたまま撮影しました。その後、ナミブ砂漠の大砂丘デューン7砂丘に行き、1000年以上の生きる不思議な植物ウェルウィッチア(和名はなんと奇想天外というそうです)を観察しましたが、ただの普通の植物にしか見えないので、写真は割愛します。ここでは水晶やアメジスト(紫水晶)がいろんなところで見つかります。大理石やグラナイト(御影石)も豊富で輸出していますし、磁石を砂の中に入れればたくさんの砂鉄が付いてきます。聞くところによるとナミブ砂漠の赤色は鉄を含んでいるかららしいのです。ほかにもナミビアではウラニウム、ダイヤモンド、金、亜鉛、リチウムが豊富で輸出しているらしいのですが、なんでUAEのような裕福な国になれないのでしょう?ナミビアは決して豊かな国ではありません。
砂漠だからもちろん雨は少ないので、塩を海水から作っています。日本でも数十年前までは香川県などに塩田がありましたが、非常に安価に塩を作れるので、広大な塩田と製塩工場がありました(写真4)。海には現地の人たちがラグーンと呼ぶ干潟があり、多数のフラミンゴが生息しており、夕焼けをバックに写真を撮ることができました(写真5)。
2月27日には南アフリカ有数の都市、ケープタウンに午前6時に寄港する予定でしたが、ケープタウンの港は風速25m以上の強風のため、寄港許可が12時になってもなかなか下りないのです。オプショナルツアーも中止になったり、返金したりで大混雑する中、ようやく上陸許可が下りたのが午後2時。帰船リミットは午後7時なので、降りてすぐに観光会社を捜して英語で交渉開始です。こういう時の旅行会社ではぼったくりはないのですが、これまでに交渉制のタクシーやお土産屋のぼったくりはよ~くありましたが、値切れば半額どころか1/4以下価格になりました。このツアーは1人1800ランドだったのが6人集めて、1人1200ランド(9600円)にディスカウントしてもらいました。時間は4時間しかないので、ケープペンギンのいるペンギンコロニーやテーブルマウンテンに行く契約で出発です。英語のできる人がいない場合は僕はいつも助手席に乗って、通訳係を受けもつことになります(写真6)。
まずは1時間かけてボルダーズビーチに自然に生息するアフリカペンギン(通称ケープペンギン)を観察です(写真7)。
港での情報の通り、強風で細かい砂が顔にあたって痛かったです。裸眼だと目の中に砂が入ってしまうので、眼鏡をしていてよかったと思いました。帰りは事故車のための大渋滞(これは日本でもよくありますね)で、事故現場をすぎればスムーズに動きましたが、ドライバーのOmarの情報によるとテーブルマウンテンに登るケーブルカーは強風のためストップしているとのことなので、市庁舎に向かいました。通常は市庁舎のような建築物には興味がない僕ですが、ここでは若くしてアパルトヘイト運動に身を投じて、黒人の公民権を得るために戦い、国家反逆罪で終身刑となって27年間も刑務所に入れられ、釈放されてすぐにアパルトヘイト撤廃に尽力し1994年に南アフリカ初の全人種参加した普通選挙で勝利して大統領になったネルソン・マンデラさんが市庁舎前の公園にいる10万人の支持者の前で演説する等身大の像を見ることができました(写真8)。南アフリカでは今でもマンデラ元大統領は国民だれからも愛されているのです。残念ながらテーブルマウンテンに登ることはできませんでしたが、やはりテーブルのようなまっ平らな山ですね(写真9)。帰途はカラフルな街並みがみえましたが(写真10)、ここはかつては白人の居住区で、今では多人種が住んでいますが、裕福な人たちが住む地区です。
イグアスの滝はほんとうにすごいらしい
ピースボートに乗っている人たちは旅のベテランが多く、その人たちからいろんな情報を耳にします。世界3大の滝、つまりナイアガラの滝、アフリカ大陸のヴィクトリアの滝、そして南米のブラジルとアルゼンチンの国境にあるイグアスの滝(写真1)を僕はどれも見たことがありませんが、3つとも見たことがある、あるいはそのうち2つを見たという方が少なからずいるのです。その人たちの意見を総合するとナイアガラは広いだけで高さがない、ヴィクトリアの滝はナイアガラよりもすごく水量も多いが、やっぱり一番衝撃的なのはイグアスの滝ということで一致していたと思います。アメリカのエレノア・ルーズベルト大統領夫妻がイグアスの滝を訪れた際、夫人が「My poor Niagara… (かわいそうなナイアガラ…)」と言ったとか・・・・。調べてみるとアルゼンチン側にある最大の瀑布である「悪魔の喉笛」は高さ82m、幅150mのU字型で長さ700mに亘ります。
ただしピースボートのイグアスの滝のオプショナルツアーは1人50万円以上と、とても高いのと、日本人ツアーガイドがいるのではなく、英語ツアーガイドの翻訳してくれるスタッフが1人いるだけで、その人の持っている旗に数十人がついていくのです。僕はマチュピチュのツアーを自分でネット予約したので、僕たち2人だけのためにマチュピチュにとっても詳しい英語ガイドのウォルターさんが2日間同行をしてくれました。だからとても安く楽しめ、勉強することができました。
船内でイグアスの滝のツアーを予約したが、行けず残念無念~
大自然の大好きな僕たちはイグアスの滝に行きたい!という気持ちが募り、そのため旅に出てから、つながりにくいインターネットをつなげて、①ブエノスアイレス発着のイグアスの滝2泊3日のコースの中でリーズナブルかつ、内容の濃いものをTripAdviserやExpedia、VELTRAなどのサイトを比較して予約、②滝の見学後にブエノスアイレスからリオにいる船に合流するためブエノスアイレス発、リオ着の飛行機をSkyscannerやExpediaなどのサイトで比較して最安値のものを予約、③空港から近いブエノスアイレスの4つ星ホテルをExpedia、トリバゴ、Hotels.comを比較して1泊1人1万円ちょっとのものを予約(日本よりかなり安くて30㎡あるものもある)、という3つのステップを踏んで、イグアスの滝ツアーを自分で予約したのです。1日目は滝の数は少ないけれど、1つ1つの滝が大きいブラジル側から、そして2日目は大小無数の滝があって、「悪魔の喉笛」を上から見下ろすことがでるアルゼンチン側から滝を見に行くツアーです。
ところが僕が大きなミスを犯してしまいました。ペルーのカヤオからマチュピチュに行くのには、飛行機に乗ったりホテルに泊まるため、ピースボートのレセプションに預けているパスポートが必要になりますが、それは前日にレセプションで申請すればよかったのです。だからブエノスアイレスに着く2日前にレセプションに行くと、「下船する寄港地の入港予定日5日前までに申請手続きをしないとパスポートは渡せない」というルールがあるということで強く断られました。まさに青天の霹靂ですが、乗員に配られた定款のような本には明記されているそうです(こんな本、渡されているけど誰も見ないはずです)。泣きそうになるくらいのショックでしたが、仕方なく旅程をキャンセルしました。30万円の金額が戻ってきません。でも後で、他の方から聞いた話では前日であっても、しつこく交渉したらパスポートをもらった人がいるそうです。これを聞いてより無念さが募りましたが、終わったことは仕方ないです。高い学習費を払って勉強させてもらいました。滝に行った人に聞くとみんな一様に「ほんと、すごかった!」と言っていました。ああ、残念!
リオのカーニバル狂騒曲
船は2月7日にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス、翌日にウルグアイの首都モンテビデオに1日ずつ停泊しました。ブエノスアイレスは観光地ではありませんが、8か国語の案内付きの2階建てバス(写真2)に乗って1周約3時間半で何度も乗り降り可能な観光バスに乗って市内を周遊し、夜には船内でアルゼンチンタンゴのショーを観劇しました(写真3)。南米では比較的安全なモンテビデオではゲバラも愛したというマテ茶のセットを購入し(写真4)、とてもおいしいチョリパン(牛肉野菜をパンで挟むサンドで、パンも炭火のような囲炉裏で焼く)という料理を楽しみました。
でもこの旅のメインイベントは2月11日から13日まで停泊するリオデジャネイロです。リオのカーニバルの最大の催しであるサンバのトップチームによるパレードは、1部リーグの本選が1日6チームずつ2月の11,12日の2日にわたり開催されるのです。まさに世界最大の祭典のリオのカーニバルに参加するためにこのピースボートの南半球の旅行プランが建てられていると言っても過言ではありません。
リオのカーニバルは夜22時から両側にアリーナ席(野球場の内野席みたいな座席でピースボートのオプションでは730,000円)、スタンド席(野球場の外野席みたいなコンクリートの座席でピースボートでは129,000円と高い)の間の700mの道路を1チーム85分かけて朝6時ころまでパレードをします(写真5,6,7)。山車、踊り、サンバのリズム、音楽など10項目によって審査され、最優秀チームを決め、最下位チームは2部リーグと入れ替えになるシステムです。僕は安い方のスタンドで見ましたが世界最大の祭典というだけあって、そりゃすごかったです。生涯で一番写真とビデオを撮りまくりました。サンバの強烈なリズムと唄、ダンサーの踊り、山車、花火、照明、たぶん1チームで数千人以上の行進など、そりゃ誰でも生涯に一度はみるべき価値があります。僕は午前3時くらいで、翌日の予定のことも考えて船に帰りましたが、何もなければ朝まで楽しんでいたかもしれません。
リオデジャネイロは巨大なキリストの像(写真8,9)が絶壁の崖の上に立っていますので、その世界3大美港として景色の良さはよく知られていますが、危ない南米の中でもスリだけでなく強盗、ピストルを使った殺人もある「とびきり危険な街」でもあります。カーニバルがあるからなおさらかもしれませんが、港を出ると昔の大阪の
通天閣あたりのように、尿のにおいが強く、多くの人が半裸の状態でたむろし女性も男性も多くがTバック姿です。少人数で歩くと危ない街だということがすぐにわかりますが、街としては全長4kmで砂浜の幅も広いコパカバーナビーチや、有名なボサノバの曲「イパネマの娘」で知られるイパネマビーチなど、とてもきれいな白砂の海岸が続き、キリスト像のある「コルコバードの丘」から見える景色は絶景でしたし(写真10,11)、シュラスコなどの料理やフレッシュフルーツジュースはとてもおいしいですし、人々はとても陽気でエネルギッシュです(写真12)。
カラカス市民オーケストラとの別れ
2月15日には南米最後の寄港地サルヴァドールに立ち寄り、バルパライソで乗船してきたベネズエラのカラカス市民オーケストラのメンバーがここで降りますので、前日の夜、さよならコンサートが開催されました。クラシックではなくマシュ・ケ・ナーダなど南米の名曲の数々や「未来へ(キロロ)」「愛をこめて花束を(Super Fly)」「世界に1つだけの花(SMAP)」などの日本曲も多数演奏していただき、最後には乗客との合同演奏・大合唱で会場は大きな拍手に包まれました。指揮者やメンバーも涙していました(写真13)。僕たちももらい泣きしそうでした。ほぼ3週間をピースボートのメンバーと共有(一緒に演奏、食事なども同じ場所で)できて友人になれたのは彼らにとっても私たちにとっても貴重で大切な時間だったのだと思います。
南米は黒人奴隷を使った資源の収奪と、ヒトの搾取の歴史
ヤクルトの元監督のラミレスさんの出身地であるベネズエラは世界有数の産油国でありながら、非常に貧困に悩んでいる国です。ピースボートとの付き合いは長く、今も楽器や文具などを貧困国に寄付しています。南米は長い期間、スペイン、ポルトガルの植民地で、アフリカの黒人奴隷(これによって一部の富裕層がさらに裕福になった)を輸出入する中継基地として旧首都であるサルヴァドールは発展してきました。その歴史は資源の収奪と、ヒトの搾取の歴史と言ってよいでしょう。一部の大金持ちは自家用ジェットを持ち、メイドを多数雇い、ヘリコプターで出勤するような日本では考えられないような富裕層もいますが、ほとんどは1日の食糧を得るのもやっとの貧困層です。だから強盗や殺人がよく起こりますが、僕たちの接した南米の方はほとんどがとても明るく親切で、面倒見がよかったです。ペルーの港湾地区のカヤオで歩いていると「殺されるくらい危ないところだからここから速く立ち去るように」と親身でアドバイスをしてくれ、タクシーも手配してくれて僕たちは無事にピースボートに帰ることができました。彼らの親切を決して忘れません。
英語ツアーガイドとポケトークのすすめ
これらの大都市でのツアーは、前もって予約しておかなくても港のそばにツアーガイドがあるので、英語の分かる人であれば英語ツアーに参加する方が、ピースボートの用意しているオプショナルツアーに参加するよりも内容も充実していて、価格も1/3~1/2以下とずいぶん安いです。南米ではホテルのフロントやツアーガイド以外で英語を話せる人はとても少なく、タクシーの運転手もレストランでもまったく英語は通じないことが普通です(How much?も通じない!)。しかもタクシーはメーター制よりも交渉制の方が多いのです。そこで大活躍したのがソースネクストが販売しているポケトークです(写真14)。スペイン語でも国によって単語などがかなり異なるので、55言語に対応しているポケトークを1つ持っていれば、とても便利です。
ということで、今、船はサルヴァドールを旅立ち、8日間かけて大西洋を通ってアフリカ大陸の砂漠の国ナミビアに向かっています。
チリの氷河に行く
バルパライソを出港してから、太平洋は波が非常に高く、船は大いに揺れ、空には厚い雲、海は色を失い、鉛色になって強風が続き、気温は徐々に下がっています。季節は南半球なので、夏とはいえこの船旅で、一番寒いところに来ました。平均最高気温は13℃、最低気温は6℃です。
船は荒れた太平洋を避けて内海に入り(地図を見ると一見、大きな河のように見えますが、瀬戸内海のように穏やかな内海なのです)、1月28日15時に海峡に入り、夜間は内海を通ってフィヨルドを進み(図1)、1月29日の早朝にはピオⅪ世氷河の間近に到達し(写真1-2)、朝7時にピースボートの最上階で巨大な氷河をバックに記念撮影。ピースボートは夏でも溶けないこの氷河を見るためにこの長い内海を通ってきたのでした。
この船旅は2月11日にリオデジャネイロに着きますが、その時がリオのカーニバルの最盛期なのです。ピースボートでもブラジル情報やカーニバルの歴史を学び、実際にカーニバルに参加したダンサーのダンス(写真3)を楽しみましたが、その迫力のすごいこと。本物のカーニバルにはあまり興味のなかった僕たも余ったスタンド席のチケットを購入しました。
南米大陸最南端の街プンタアレナスに停泊
その後、内海水路を戻って、1月30日、31日にはチリ側の南米大陸の最南端でマゼラン海峡に面したプンタアレナスに停泊しました。プンタアレナスは年間を通じて風が強い街ですが、バルパライソと同様、パナマ運河開通までは、太平洋と大西洋を結ぶ重要な航路であった同海峡を航行する外洋船の寄港地として繁栄したそうですし、最果てなのでチリの流刑地でもありました。今は人口13万人の牧羊で得られた羊毛や羊肉の拠点になっています。海岸には海鵜、カモメとたくさんのマゼランペンギンがいました(写真4)。ここは人口13万人とは思えないほど、大きなショッピングモ
ール(この中にはユニクロの看板も見ましたが、なぜかGAPなどの他メーカーと一緒で、お店の中にはユニクロ商品は皆無でした: 写真5, 6)やスーパーマーケットが港の近くに多く、どのお店の店員や警備員の人たちもとっても優しい人ばかりでした。
そしてこれまでの、あるいはこれからの南米・アフリカの中ではかなり安全な街です。ただし英語の通じる人は全くいなかったため(これは南米各国で言えます。ホテルのフロントはさすがに英語を話せますが、タクシーの運転手やお土産屋さんの店員もまったく英語を話しません)、ポケトークが大活躍してくれました。僕はこの時、旅行者下痢症でしょうか、2日間下痢が続いていたのですが、ロペミンⓇを持っていなかったので、ショッピングモールの薬店でロペラミドを購入。小さな2mg錠(日本の倍量)が6錠入って3,990ペソ(638円)とリーズナブルな価格でした(写真7)。それとチリ人が好むMerquenという辛みの調味料と好物のマシュマロを2袋(1袋150円程度で日本とほぼ同じ)購入しました。チリワインも欲しかったのですが、なぜかこのあたりのスーパーマーケットにはチリワインどころかビールも売っていなかったので翌日はワインを買うために港から6km以上離れたUnimarcという大きなスーパーに行きました。南米では日本で見られない種類のバナナを多く見ました。クスコでも赤いバナナや太目のバナナを買って食べましたがとてもおいしかったです。ここでは緑のバナナが売っていましたが(写真8)、店の人の話によると、これは料理油のバナナなので、そのまま食べてもおいしくないそうです。その後は船内でなくしたギター用のカポタストを楽器屋さんで購入しました。僕の持っているマーチンのバックパッカーというギターのネックは太いので、クラシックギター用のものでないと合わないのでです。ずっと他人のカポを借りていましたので、ちょうどよいものがあって本当によかったです。天気は午前中の霧雨はやみましたが、ほんとプンタアレナスには風の強い街でした。でもカラフルな家が並ぶ素敵な街でもありましたし(写真9)、この辺りの日の出は6:20、日の入りは21:44と1日が長く(白夜のよう?)、1日を長く楽しめるのはとてもお得な感じがしました。
南米最南端の街ウシュアイアでパタゴニアトレッキング
2月2日にはアルゼンチン側のフエゴ島に位置する南端に位置する人口6万人のウシュアイアに停泊しました。この辺りは南米大陸のプンタアレナスよりも200kmも南にある島で、いわゆる「世界の果て」でもあり、1人200万円以上もするオプショナルツアーの南極クルーズに行く人たちもこの街を起点にします。ここもプンタアレナス同様、アルゼンチンの流刑地としても有名で、刑務所は観光地になっています(写真10)。日本の網走みたいですね。ブンタアレナスよりもやや寒く、この旅で最も寒いところです。ウシュアイアに着いた時から、見渡す限り、険しい山々があって(写真11)、まさにあの防寒・登山ウエアで有名な「パタゴニア」のマークのような形の山々が連なっており、初めてスイス・オーストリアのアルプスを見た時のような衝撃でした。
ここでは船内のオプショナルツアーのパタゴニアのミニトレッキングを選択しました。僕たちは基本的には船内のオプショナルツアーは高いのであまり参加しませんが、ウシュアイアという小さな街を起点とするパタゴニアツアー自体がウェブ上では見つからなかったので仕方ありません。ピースボートでは高齢者が多いためか、トレッキングといっても息が切れるようなきつさはありませんが、風景はどこを見ても、さすがに美しいです(写真12)。
時々、上高地や尾瀬のような湿地帯や池がありましたが、これはアルゼンチン海軍が1940年代に毛皮で産業を育てようとビーバーを連れてきたのですが、彼らが川をせき止めて池を作ったために、水に弱い木が枯れてこのような池ができたとのことで(写真13)、せっかくビーバーが作ったダムを、住民が壊して森林破壊を食い止めているそうです。ビーバーはその後、毛皮にもならず、天敵もいないため数は増えましたが、ヒトと共存しているそうです。ウシュアイアはタラバカニがおいしく、列車「世界の果て号」、世界の果て博物館、堺の最果て駅、世界最南端の郵便局があり、アラスカから続くパンアメリカンハイウェイの終着点です。
ピースボートは2月3日より大西洋に出て南米大陸の東岸のアルゼンチン、ブラジルに向かいます。2月7日には世界最大のイグアスの滝、そして2月11日にはリオのカーニバルが待っています。
カヤオ港から乗ってきたフォルクローレバンド、バルパライソから乗ってきたカラカス市民オーケストラ
1月23日からペルーの伝統音楽フォルクローレのバンドのロス・チョロスの4人組がカヤオ港から乗船し、次の寄港地チリのバルパライソまで1回30分のコンサートを2回ずつ、3日間行いました。フォルクローレを知らない人でも「花まつり」やサイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」は知っていると思います。ケーナという葦笛(実は葦ではなく竹らしい)、サンポーニャ、チャランゴ(クルーズ船旅日記⑥参照)、ギター、ボンボという太鼓などを使う郷愁を感じる心に染み入る音楽を聞かせてくれました(写真1-3)。僕は高音で8~10弦の小さな弦楽器、チャランゴの音色が大好きになりました。僕が学生時代、サイモンとガーファンクルの影響で
流行ったフォルクローレに憧れて、ケーナを買いましたが、1曲もマスターできませんでした。僕が20歳代になると、カントリーやブルーブラスにも憧れてバンジョーやフラットマンドリンも買いましたが、弾けるようになったのはどちらも4~5曲のみです。でも今でもチャランゴの音色に似たマンドリンは持っています。僕がもっと若かったら、チャランゴを買っていたと思います。ロス・チョロスの4人組は次の寄港地、チリのバルパライソで下船しました。
そして、新たに乗船したのが、ベネズエラのカラカス市民オーケストラのメンバーです。指揮者と弦楽四重奏にドラムが加わった珍しい組み合わせです。この中からベルリンフィルに行く人もいるという若い実力者たち。ヨーロッパから入ったクラシックに南米独自の音楽が組み合わさった素晴らしいコンサートで、最後は日本の「ふるさと」「花は咲く」を演奏すると大歓声でした(写真4)。
チリのバルパライソへ寄港
1月25日、あいにく、天気は霧雨です。チリのバルパライソに入港しましたが、先に我々よりも大きなクルーズ船バイキングジュピター号が停泊していました(写真5)。バルパライソはパナマ運河ができる前には南米大陸の最南端からアフリカに向かう途中には必ず立ち寄る港でしたので南米最大の都市として栄えました。バルは谷、パライソは天国を意味するので、「天国の谷」という意味ですね。オプショナルツアーには申し込まず、港から20~30分歩いてコンセプシオンの丘に行ってカラフルな街並み、ストリートアート(写真6)を見ながら散策し、丘を下るとソトマヨール
(チリの英雄らしいです)広場(写真7)に出ますので、そこでのフリーマーケットをのんびりと見学して、新しい茶色のハンチング帽(キャスケットキャップ)を6ドルで買って船に帰りました。天気はずっと曇りから霧雨でしたが、晴れていると、きっともっともっと素晴らしい風景だったんだろうなと思いました。
中間発表会~文化祭のようなもの~
1月27日はクラブ活動のような社交ダンス教室、サルサ、ジルバなどのダンス系はステージで、ぼくのやっている透明水彩画などの教室の中間発表会がありました。ダンスの苦手な僕はダンス系には一切参加していませんが、妻はサルサで参加しました(写真8)。僕は今までに描いた水彩画を展示しました(写真9, 10)。なんか高校の文化祭みたいですね。
塚本・平田のコンビ(写真11)でのコンサートも1月22日にはみんなで歌える「東へ西へ」「あの素晴らしい愛をもう1度」「遠い世界に」などの1970年前後の日本の歌(やはりピースボートの客は僕よりも高齢者が多いので)を中心に40分の2回目の単独コンサート、27日には「アコギでビートルズ」と題して、すべてビートルズナンバーばかりの45分の3回目の単独コンサートを行いました(写真12)。僕が師匠と呼んでいる塚本さんは楽譜なし(歌詞もコードもフレーズも全部覚えている!)でリードギターを弾きながら(信じられないフレーズを唄いながら間違えずに弾けるのです!)、リードボーカルができるすごい方なのです。僕はビートルズのコーラス部分
とサイドギターという楽な役割なので、司会とマネージャー役も務めています。「アコギでビートルズ」は大盛況でした。なぜかというと、ビートルズの歌詞はすべて英語なので、僕たちのプログラムは日本人だけではなく英語の堪能な中華圏・韓国の方々も来ていただいたので超満員でした。Eight days a weekやA hard day’s nightをリクエストされましたが、うちの師匠は「抱きしめたい」や「She loves you」などのあんまり軽い曲はやらないのです。。最後は演奏する予定のなかったGet backやYellow submarineの大合唱で終わりました。
カヤオ港を出てから風邪が蔓延
カヤオ港に出てから、水彩画教室に行くと半分以上の方がいない、そして楽器演奏広場も閑散としています。クスコからマチュピチュのツアーで皆さん、疲れてしまったのと、船が南下するとともに寒くなるのと同時に、波も強く、晴れの日はほとんどないので僕たち夫婦を含め、多くの人が風邪をひいてしまいました。でもこれがこのあたりの普通の気候らしいのです。デッキに出ても強い寒風でギターなんか弾いてられませんし、デッキの周りを歩く人たちの姿も少なくなりました。この気候と船の揺れはしばらく続くそうですが、船は南米大陸をさらに南下し、1月30日にはチリの南端でパタゴニアの中心都市プンタアレナス、2月2日はアルゼンチンの最南端のウシュアイアに寄港し、その後、南米大陸の東海岸に行く予定です。
ピースボート最大の難点はオプショナルツアーの代金が高いこと。僕は前回にも書いたように旗を持った日本人ツアーガイドについていく多人数のツアーは日本から出てきた意味がないように思えて、あまり好きじゃないのです。だって1日にピースボートから600人が旗を持ってマチュピチュに行くなんて、想像してみてください。最近の僕と妻の旅のスタイルは1つの都市に1週間程度は滞在して、現地の人たちが本当にいいと言っているところに行くことです。ハンガリーでは多国籍の人たちとワイナリーツアーを楽しんだし、ニュージーランドのクライストチャーチではレンタカー(旧英国領なので右ハンドル)を借りてテカポ湖、プカキ湖からマウントクックまで旅をしました。オーストラリアのケアンズでは夜行性生物の観察や馬に乗って川を渡って大自然を満喫できるツアー、ホワイトウォーターラフティング(日本での急流下り)にも参加しましたが、すべて英語ツアーです。いろんな国の人たちと会話するのはとても楽しいです。日本語ツアーガイドは数が少ないのでどうしても多人数のツアーになりがちなのが問題だと思います。
カヤオ港周辺はとっても危険な街
ピースボートが停泊しているカヤオ港の港湾地区から外に出るには無料のシャトルバスに乗る必要があります。そうやって首都のリマ市内に入ることができますが、バスから降りると、多くのタクシーが待っています。ペルーのタクシー代はメーター制ではなく、交渉しなければなりませんが、カヤオからリマのホルヘ・チャベス空港までの距離は7.6kmで、車で15分と聞いていますので、ペルーの物価から考えると10ドルもあれば十分なはずです。ただしタクシーの運転手は前もって話し合っているのか、どのドライバーも最初はカヤオからリマ市内に行くのに40ドルを要求しますので、「高すぎる!」というとタヒチと同じく30ドルの30のことをタクシードライバーたちは「ターティ」と発音します。それでも高いと思ったので「20ドル」でまとまりましたが、やっぱり高いです。ただしリマ市内は交通渋滞がひどく、空港に着くには30分かかりました。
後で聞いた話ですが、カヤオの港湾地区で日本人男性が殴打されて持っていたバッグに入っていたすべての現金(船内の各部屋には金庫があるのにそこに現金を入れず、すべてを持参していたらしい)、そして6人の人たち(日本人男性5人と女性1人)が襲われ、ナイフで切られスマホも取られたそうです。南米やアフリカの治安は悪いことは知っていましたが、スリやひったくりではなく、まさに強盗や殺人もあって、日本人は特に狙われやすいのだから怖いです。ピースボートが停泊している港湾地区はスラム街と密接しており、危なっかしい雰囲気です。ほぼ1800人のお金を持った人たちがやってくるのだから、強盗たちは格好の獲物が来たと考えているのでしょう。襲われたというニュースは船内でも流れたものの、詳しくは知らされていませんが、お金だけならいいけど、海外でパスポートやスマホを盗られたら大変です。カヤオでの窃盗はピースボートの乗客だけで13人の被害者が出たそうです。
僕自身、昨年の6月に学会で訪れたローマの満員の地下鉄内でバッグの中に入れていたパスポートやクレジットカード、現金の入った盗難防止用のケースを盗まれて(おそらく車内で複数人数の窃盗団が気づかないようにバッグのジッパーを開けて鋭利なナイフを使って瞬時に切り取ったのでしょう)、警察へ届け、日本大使館に行き、パスポートの再発行をお願いし(これには戸籍謄本が必要ですので、大阪にいる次男にすぐに写メを取って送ってもらいました)、クレジットカード会社に電話連絡して機能停止させなくちゃならないという大変な苦労をしましたが・・・・。
前もってカヤオやリマは危険と知っていたので、僕は金持ちらしい格好はせず、楽天市場で買った500円のT シャツ、ユニクロの雨除けジャケット、腕時計は1500円のカシオ、現金は2万円分程度のドル紙幣だけという姿で空港まで行きました(写真1)。でもクスコやマチュピチュであったペルー人はみんないい人ばかりでした。たぶん、貧困が原因なんだろうなと思っています。
標高3400mのクスコの高山病対策~ダイアモックスⓇの予防効果~
マチュピチュに行くために経由するクスコの標高は3400mと富士山山頂よりもやや低い程度なので、急激にSpO2が90%以下になり(表1)、平地では酸素吸入が必要となる状態と判断されてICUで監視される重症の状態になるので、結構辛いのです。せっかく持ってきたパルスオキシメータを妻が船内に置いてきたため、測定ができませんでした、残念!
高山病は重症になると、高地脳浮腫や高地肺水腫などを発症することもあり、意外と怖いので(実際に帰船してから多くの人が高山病に罹ったと聞きました)、水分をこまめに摂って脱水を防ぎ、炭酸脱水酵素阻害薬ダイアモックスⓇ(アセタゾラミド)250mgをクスコに行く前日から1日2回服用して高山病を予防しました。炭酸脱水酵素を阻害すると、水素イオンの尿中排泄を阻害しNaイオンが再吸収されず利尿作用をもち、アルカリ尿が排泄されるので、血中の血液pHが下がり、これが呼吸中枢を刺激して(脳血管を拡張して呼吸中枢を刺激するという説もある)、換気量が増大することによって高山病予防効果があるとされています。高地に行く1~2日前から内服することで高山病予防効果があるというされています。ダイアモックスⓇは炭酸脱水酵素阻害作用ではなく水チャンネルに結合してその機能を阻害するメカニズム(Aquaporin-1とAquaporin-4を阻害する)によって脳浮腫や肺水腫などの高山病症状の治療薬になるというメカニズムも想定されています。
ダイアモックスⓇのジェネリックはリマの国際空港でも売っていました。Boticaというのがいわゆる薬店のことみたいです(写真2)。ピースボートのメンバーが高山病の心配をしていたので薬剤師の僕が購入の仕方、服用法を教えてあげました。僕たち夫婦は昨日からダイアモックスⓇを1日2錠飲んでいたので安心していますが、さすがにクスコに着くと体がなんか変でした。浮遊感が半端ないのです。水を飲む、深呼吸をして、アルコールは取らない、大食いはしないなどの高山病対策をしてなんとか過ごすことができました。
クスコは美しい街並みでペルー料理を堪能
クスコはかつてエクアドルからチリまで続く栄華を誇ったインカ帝国の首都でした。今までにいろんな都市を見ましたが、これまでで一番印象に残る古い街並みに感動しました(写真3)。山のさらに高いところまで家が建ち並び(写真4)、路上に
はセーターやお菓子、飲料などの行商の人たちがたくさんいます。僕たちはセーターを2着買いました。最初は2着で45ドルといわれましたが、「30ドルにして」とお願いし、33ドルで交渉成立。お土産では1着20ドルするTシャツが普通にありますが、セーター2着で33ドルですからかなりお得です。夜のクスコは高地なので気温が10℃以下になってしまうため、早速着てみました(写真5)。有名な12角形の石(写真6)や夜景を楽しみながら食べるペルー料理は最高でした(写真7,8)。
マチュピチュへの旅程
マチュピチュに行くには1月18日にカヤオ港からリマのホルヘ・チャベス国際空港空港に行き、飛行機でインカ帝国の首都だったクスコに行かねばなりません。クスコのホテルでは19日の朝5時半に朝食を済ませ、6時に迎えに来てくれる運転手を待って、車で90分走って駅に行き、標高3400mのクスコから列車(写真9,10)でウルバンバ川沿いを90分下って標高2400mのマチュピチュ村に行き、それからさらにバスで急勾配を上がって遺跡に着きます(写真11、12)。マチュピチュはクスコよりも1000m低いので高山病に似た症状はほとんどの人で消失します。そしてマチュピチュ遺跡を観光する1日目はマチュピチュ村のホテルで宿泊し、20日の朝もマチュピチュ遺跡を見て、クスコに帰って同じホテルに宿泊し、21日に再び飛行機でリマに帰ってピースボートに合流します。
ついにマチュピチュへ行くことができた
ピースボートのマチュピチュへのオプショナルツアーは1人50万円以上と、とても高いのでリマからクスコへの飛行機(1人往復で19,000円)、クスコでの宿泊(2泊で1人15,653円)、マチュピチュツアー(2日間のマチュピチュ遺跡見学と英語ツアーガイド+クスコからマチュピチュへの往復交通+マチュピチュ村のホテル1泊付きで1人115,000円)は前もって自分でネット予約しました。そうすると1/3以下の価格でマチュピチュ遺跡に2日間行けますが英語ガイドになります。今回の通訳は自称インカ人の血を引くウォルターさん(写真13)で彼の話す英語はとても分かりやすく100%理解できました。神戸に来てから毎日DMM英会話(オンライン英会話でフィリピン、アフリカ、セルビアなどの旧ユーゴスラビア、中米などの世界中の人々と1対1で会話できますが、英米豪などのネイティブと英語の達者な日本人教師は価格が2倍以上になる)25分×2コマをやってきて、英会話力がかなり戻ってきたのだと思います。
空中都市マチュピチュが作られたのは1450年ころ、インカ帝国の皇帝の離宮であったとされますが、1532年にインカ帝国は鉄砲を持った200人足らずのスペインのピサロによって征服され、1572年には最後の王もスペイン人に殺されスペイン植民地になってしまいます。インカには鉄器ではなくブロンズ製のものしかなく、武器は石斧、投石器、投げ槍(槍先は石)、弓矢しかなかったので、鉄砲、鉄器を持ったピサロの群には全く敵わなかったようです。でもインカの人々が亡くなった原因は殺されたのではなく、多くは疫病(天然痘など)で、一説によると9割前後が伝染病によって亡くなったそうです。これはアメリカインディアンも同じですね。最盛期の人口が1万人だったマチュピチュも1536年から人口は減って1540年には人が住まなくなったのですが、スペインの侵略後も発見されないまま、1911年にイエール大学の考古学者ハイラム・ビンガム(インディ・ジョーンズのモデル)によって発見されました。300年以上経過しても浸食されることなくマチュピチュがほぼ完全な姿で残ったのは、石でできた上水道と雨水などの排水などの灌漑装置がしっかりしていたからではないかと思いました。だってこの上水道と雨水を別々に分けるシステムは今でもうまく機能しているのですから(2日目は雨だったので確認できました: 写真14)。
ペルーの伝統的な音楽のフォルクローレでサイモンとガーファンクルが歌ってヒットした有名な「コンドルは飛んでいく」という曲がありますが、僕はこれまでにコンドルが飛んでいるのを見たことがないので、ウォルターに「コンドルはいないの?」と聞くと、「マチュピチュにいるリャマを崖からあんたが突き落とせば、リャマは死ぬ。そうするとコンドルを見れるよ。コンドルは生きた動物は襲わずに死んだ動物をエサにして生きているんだから。ほかにも危険な動物はアナコンダやピューマなんかもいるよ」とユーモアたっぷりに教えてくれました。
運動会狂想曲
タヒチ島を後にしてマチュピチュに行くための寄港地、南米大陸のペルーのカヤオ港まではやはり1週間近くを要します。ピースボートの乗客は1800人、日本人は1200人で中国語圏のシンガポール、台湾、中国本土、それから韓国人、欧米人が残りの600人です。この中に200名くらいでしょうか、各国の20歳代の若い人たちが中心になって運動会の実行委員会が結成され、彼らは朝早くから、深夜まで運動会のために働きます。以前にも書いたように僕たちが学生時代の学園祭実行委員会と同じですね。乗客を誕生月によって赤団、青団、黄団、緑団の4団に分かれて競います。もちろん国籍や年齢で別れることはありません。僕は9月生まれなので、1月、5月、9月生まれの人が属する黄団に入り、黄色のTシャツを着て、黄色の細い布を首にかけるか鉢巻きにして参加します(写真1)。僕の出場種目は綱引きです。運動会は1月15日に開催されましたが、それまでに様々な種目の練習をしたり、応援の練習をしたり、盛り上げようとたくさんの乗客に参加を呼び掛けたりで、若い人たち、ご苦労様です。
運動会の日は、あいにく曇りで、強風でいつ雨が降ってもおかしくない中、奇跡的に雨が降らず、朝8時半に集合し、開会式が行われました。あとで学んだことですが、赤道に近い南半球でしかも季節からいうと夏なのに涼しいのはペルー海峡という寒流のためだそうで、このため紀元前に作られたペルーのナスカの地上絵がいまだに残っているのも曇っているけど雨が降らないため、ペルーの海岸の近くが砂漠化しているからだそうです。
アナウンスはいつもの通り、日本語、英語、中文、ハングルの4か国語で行われ、国境を越えて4つの団が競うのです。参加者全員が集まって行う全体写真撮影会、開会式、体操、○×ゲーム、応援合戦(これも審査対象になります:写真2)、大縄跳び、障害物リレー、綱引き(写真3,4)、玉入れ、玉送りなどを終え、16時15分に再度、全体集合記念写真を撮って1日中続くプログラムを終了しました。僕の参加した綱引きでは黄団は見事に勝利し、全体の優勝もできました。でも勝負は関係ない。高齢者にも参加を呼び掛け、若い実行委員たちがみんなで楽しませんてくれた。この10日間以上、朝早くから深夜まで運動会の準備をして、進行を行ったのはみんな若い人達です。運動会を終わってからも結束した若者たちは飲んで騒いで、充実した日々をかみしめているかのようでした。
日韓関係、日中関係とは異なる韓国の方、中国の方たちとの生活
日韓関係は一時期に比べ、よくなっていますが、日本にいると日本側の考えばかり聞くことになります。在韓の人達や韓国の人たちと一般の日本人が日韓関係について話をすることを僕たちは避けています。ピースボートでは上記の運動会のように僕たちは韓国の人や中国の人達と交わりながら生活をしています。慰安婦や徴用工問題があらわになった後、日韓関係は以前よりもぎくしゃくし、日本人は韓国人を嫌うようになりました。その理由は韓国の反日教育のせい?様々な理由があり、それらはもっともかもしれません。だけど「日本は韓国のインフラを整備し、教育を充実させてあげて、人口も増えて、貧しい生活を豊かに変えてあげた。戦後の漢江の奇跡も日本が韓国に多額の資金を援助したからできたこと。韓国人は日本人に感謝すべきなのに、何でここまで日本人を嫌うんだろう?」という考えが日本では定着しつつありますよね。
20歳代の在韓の男女2人が企画した「日本に過ごす韓国の若者の考えを聞いてみよう」に参加しました。僕たちは彼らの考えを聞いたことがなかったから参加したのですが、大いに考えさせられました。「日本は韓国を併合して(植民地ではない)、韓国は日本になった。だからインフラや教育制度を日本本土と同じにするのは当然のこと。だけど明らかに韓国人を差別してきた。これって豚によいエサを与え、よりよい環境を与えて太らせて、豚の持ち主が儲けるためにやっているだけのことじゃない?これで豚はしあわせになったと言えますか?」といわれて、複雑な心境になりました。ただし、戦争を起こした人たちは決して公正ではないけれど、裁判で裁かれ、今は全く違う世代になっているのに、いつまでも謝罪し続ける必要はないじゃないかとは思っています。過去に日本人はアジア諸国に大変な迷惑をかけたことは忘れてはいけないと思いますが、新しい世代の人たちは新しい関係を築ければいいなと思っています。日本人は中国人のことも「うるさい、声が大きい、マナーが悪い」といっていますが、一緒に毎日を過ごしてみると「中華圏の人たちは一般的に日本人よりも明るくて積極的」と僕には映ります。日本人は個性よりも、とても調和を重んじる関係を好みます。そして質問をしても日本人は他人の気に障るようなことをしたくないので答えはあいまいなことが多く、答えないことも多いです。だから常に他人のことを気にかけながら生きなくてはならない文化があり、オリジナリティのある答えをすると嫌われるかもしれません。そして上下関係にも厳しい。ああ息苦しい。僕は海外旅行をするときに、旗を持った日本人ツアーガイドについていく多人数参加の日本人ツアーは面白くないので好きじゃありません。だって、誰もコミュニケーションを取ろうとしないから。日本人は個性を嫌うくせに、個性のある白人を素敵だと思う一方、個性のある同じアジアの同胞をあまり好きになれない傾向にあるのはなぜなんでしょうか?
こんなことについて長々と書くと、「平田はピースボートに洗脳されたの?」と右翼がかった人たちから言われそうだからこれ以上は書きません。だけど、世代も政府も変わったとはいえ、日本は多くの国を侵略して多大の迷惑をかけたのは確かです。それと日本軍が先に手を出したとはいえ、日本でも多くの人々が米軍によって無差別爆撃され、広島、長崎と2回も原爆を落とされ多くの一般民・在日韓国人だけではなく12人の捕虜になった米兵が亡くなりましたよね。実際にあった歴史をゆがめずに理解したうえで、政府の高官どうしだけではなく、一般の人々どうしがまじめに話し合う場を持って、若い人たちに新しい平和な国際関係を築いてもらいたいなあと思います。
スマホを見ない生活
ピースボートに乗っているとWifi環境が悪いため、高齢者も若者も誰もスマホを見ていません。僕はスマホの便利さは認めますが、ちょっとヒマになるとスマホをのぞく若い人たち、通勤電車に乗っている人たちのほとんどがスマホに夢中になっている。若い人も中年のサラリーマンもほとんどがメールのやり取りか漫画を見るか、ゲームをやっている。小説を読む人、受験勉強している高校生は本当に少なくなりました。会社の休憩時間でもコミュニケーションをとる人よりも1人でスマホに没頭している人たちが多い。ついつい「日本人全体がバカになっている」と思ってしまいます。スマホをうまく使いこなせない僕の方がバカかもしれませんが・・・・。スマホを使わない船内の生活はとても文化的です。講演や文化的な情報交換、芸術や趣味や運動、歓談に費やす時間で暇がなくなるっていうのはとても充実した毎日を過ごせていることだと思っています。
今日もピースボートは南米大陸に向けて進み続けています。海に沈む夕焼けがとても美しかった(写真5)。
イースター島上陸前
これまでのところピースボートは太平洋を東に向かって1週間くらいずつ走ってハワイ、タヒチ、そして今回のチリ領のイースター島に行き、今日は1月10日、早朝6時に火山島のイースター島(現地語名ラパ・ヌイ)に着きました。ピースボートではハワイに着くまではハワイアン音楽とフラダンスを教える人を水先案内人として招待し、タヒチを訪問するまではタヒチやポリネシアの歴史や文化を学びます。決して観光情報だけではなく、学習するのです。ラパ・ヌイに着くまではオーバーツーリズムによる環境問題について学びました。そしてラパ・ヌイのダンサーでミュージシャンも水先案内人として招かれました。
ラパ・ヌイには日本の与那国島のように大きな船が着岸できるような水深が深い港がないため、飛行機で行くこともできますが、ピースボートの場合、パシフィックワールド号の所有する小さなテンダーボートという船(写真1-4)、数隻を使って1回100人足らずが分散して2日間に分かれて上陸します。1800名の乗客のほとんどがイースター島を訪れるので、1人当たりが島で過ごすのは3時間足らずです。
僕たちは2日目の朝、出発しましたが、1日目の観光が終わってから、ラパ・ヌイの島民たちがピースボートに乗り込み、夜、一番大きなシアターで素晴らしい音楽と踊りを見せてくれました。(写真5)ギター2本と2つのパーカッション、そしておそらくアンデスの民族音楽「フォルクローレ」で用いるチャランゴ(もともとは表板以外はアルマジロが使われていましたが、今は木製)だろうと思いますが、マンドリンやウクレレのような高い音色の楽器2本が絶妙なリズムとハーモニーを生み出していました。(写真6)ダンスはポリネシアに位置するためか、女性はハワイのフラダンス、男性はニュージーランド原住民のマオリ族のような勇壮な踊り(ラグビーの国際試合前にニュージーランドのオールブラックスが見せるあの踊り)です。
いよいよイースター島上陸
翌日はいよいよテンダーボートに乗ってイースター島に上陸ですが、オプショナルツアーには4種類あって、僕らのツアーはかつてイースター島の「長」を決めるための「鳥人儀礼」の伝説の場所、オロンゴ岬を訪問する特別なコースです。この儀礼は海鳥の生息する小島に泳いで渡りその鳥の卵を速く持ち帰った男が1年間、島を支配するというもので(写真7-9)、かつてイースター島は5万人の住人がいて、10の部族に分かれており、その部族の代表たちが「長」
になるために平和的に競ったらしいのです。でもこのオロンゴ岬を見るために、一番の興味である、モアイ像を見る時間がほとんどなってしまったため、僕たちのグループは合計8体のモアイ像しか見れませんでした(写真10)。他のグループは数十体のモアイ像を見れたそうで、僕たちのグループは少し物足りませんでした。10世紀以前から造られ始めたモアイ像は17世紀まで造られ続け、モアイを造って運び、建てるために大量の木材が伐採されたため、あるいは人口爆発によって木が伐採されたという説もあり、イースター島にはかつてあった森林が消滅し、今は岩がむき出しになっているところが多く、それによってこの島独自の文明が崩壊したそうです。この他にも西欧から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果(あるいは西欧による侵略の説もある)、最盛期には5万人いた人口がさらに激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、この過程で文化伝承は断絶したと言われています。その後、チリ領になって現在に至っています。僕たちが上陸中にスコールのような雨が3回降り、来ている服がびしょびしょになりました。でもその雨の後、とってもきれいな虹を見れたのが不幸中の幸いでした(写真11)。
阻害薬ラパマイシンはこの島で発見された
もう1つ、薬剤師として知っておきたいことはラパ・ヌイのモアイ像のある土壌から発見されたマクロライド系の抗菌薬です。しかしこの物質からは抗菌作用よりも、かの有名なmTOR(mammalian target of rapamycin)タンパク質に結合して、それを阻害して過剰な細胞増殖や血管新生に関わる遺伝子の働きを抑え、オートファジーを促進し、AMPプロテインキナーゼを活性化して長寿になれると言われているラパマイシン(別名シロリムス)が作られてました。がん細胞の増殖などに関わる特定の分子の情報伝達を阻害することで抗腫瘍効果をあらわす分子標的薬として使われているほか、アルツハイマー病や心不全など加齢に伴う疾患の予防治療に役立っている薬物です。またmTOR阻害薬のラパマイシンは移植された組織や臓器に対する拒絶反応を引き起こすリンパ球(免疫系細胞の一種)の働きを抑える免疫抑制剤として腎移植後に広く用いられているほか、シロリムスは再狭窄の防止の目的で冠動脈ステントのコーティング剤としても使われています。
なぜか赤道に近い南半球なのに朝夕は半袖では寒いくらい、涼しいです。そして日の出は午前7時すぎ、日の入りは午後9~10時となんか時間間隔がおかしくなりそうな今日この頃です。短い旅でしたが2日間停留したイースター島を終え、ピースボートはペルーの首都リマのカヤオ港に向かっています。ようやく太平洋の島ではなく南アメリカ大陸です。1月18~21日までとカヤオ滞在期間が長いのは、おもにインカ帝国の秘境のマチュピチュやウユニ塩湖など見どころ豊富な場所に行くためです。
石川県の地震のニュースが徐々に明らかになり、ピースボート内でも少し深刻に考え、義援金を募るなどの活動が始まっており、現在、この船だけで約200万円の募金が集まっているそうです。冬のこの時期の地震は深刻ですね。船はモアイ像で有名な南海の孤島イースター島に向かっていますが(写真1)、この辺りは雨期になるらしく、曇りや雨の日が多いです。南半球とはいえ赤道を超えたあたりですが、蒸し暑い日本に比べれば、ずいぶん過ごしやすいと思いますし、早朝はむしろ涼しいくらいです。ただし船内は冷房がきついのがつらいです。室温が高いと船酔いしやすいので下げているようですが、外は完全な夏なのに、船内では上着がないと風邪を引きそうなくらい寒いです。
時間を無駄にしたくない
このクルーズ船旅行は地球一周106日間の旅です。この間に、今までにできなかったこと、やり残したことをやってみたいと、誰もが何らかの目標をもって乗船していると思いますが、僕もそうで、自分の得意分野ではない免疫やがんなどについて基礎から学び直そうと思ってたくさんの本を持ち込みましたが、船内でのギターと唄の練習、ランニングや英会話上級教室、水彩画教室、趣味の会や講演会への出席に忙殺されてあまり進んでいません。旅行に行ったために遊んで、やる気をなくすようにはしたくないのです。常に昨日よりも今日、今日よりも明日の自分の方が進歩していたいのです。船内のジムで走っている時や船内デッキを歩いているときでも時間を無駄にしたくないので、英会話を聞いているので、DUO 3.0/CD復習用(写真2;これが英会話を上達したい人には一番お勧めです)、ALCのキクタン英検準一級の2冊の本の例文をiPhoneを通して頭に叩き込んでいます。
変な楽器を持ってビートルズをやっている人
日本を出発して3週間も過ぎると少しずつ、僕も顔を覚えられて「健康長寿について講演した人」、「タヒチのモーレア島で英語ガイドの通訳してくれた人」と呼ばれることがありますが、一番多いのが「変わった楽器を持ってビートルズをやっている人」なのです。「走っている人」とはあまり言われたことがありません。実は僕はギターが好きで、モーリスやヤマハ、K.ヤイリ(以前に持っていたマーチンHD28よりも音がいい!)など結構いいギターを持っているのですが、ピースボートに乗って、ライブに参加することや、自分でライブを企画するなんてことは全く考えていなかったので、今回はマーチンのバックパッカーというコンパクトなギターを持ってきました(写真3)。音は悪くはないけれど、大きなギターにはかないません。最初はなんでいいギターを持ってこなかったんだろうと後悔していましたが、「変わった楽器を持ってビートルズをやっている人」ということで知られるようになったのは、いいことかもしれません。ピースボートでは毎朝6時から9時まではバーを借りて「楽器演奏広場」がオープンします。ギター(クラシックギターもエレキギターも)だけでなく、ウクレレ、エレキベースやバイオリン、トランペット、フルート、トロンボーン、ハーモニカ、オカリナ、パーカッション、琴や民族楽器、指笛や声楽の方など多種多様、ありとあらゆる楽器が集まり、コンサートも定期的に開催されています。そして開催するのはピースボートではなく、我々乗客自身も自主企画をすることができるのです。コンサートも初心者レベルからプロまで、誰でも参加できるのです(写真4-6)。僕もギターと唄の師匠である塚本さんと一緒に50分間のコンサートの企画運営をしましたし、自主企画で講演を2回しました。講演の反響は意外と大きく、熊本のご夫婦に「もっとお話をお聞きしたいので、食事を一緒にしたい」、4人の見知らぬ方たちから、同様に「食事を一緒にしたい」、そしてシンガポール、マレーシアの日本語の堪能な方たちも講演を聞いてくれていて、「私たちがピースボートにお願いするので、英語通訳をつけてほしい」という要望がありました。お食事会はもう2回済ませましたが、メモを書きながら、健康長寿について様々な質問を受けました。反響が少しでもあったのはとてもうれしいことです。
若い人こそ、ピースボートに乗ってみたら?
船では15日に開催される運動会の準備で若い人から高齢者までみんなで盛り上がっています。玉入れ(写真7)、綱引き、大縄跳び(写真8)、障害物競走などの競技を誕生月で赤組、青組、黄組、緑組に分かれて競うもので、妻は緑組なので「お父さん、何か緑のTシャツ持ってない?」と聞いてきたので、大阪マラソンの黄緑色の完走Tシャツを貸しました。僕は運動音痴なので応援だけにしようと思いましたが、運動神経は関係なさそうなので誕生月で分けられる黄色組に参加することになりました。若い人たちが中心となっている運動会の実行委員たちの準備(写真9)を見ていると高校、大学時代の学園祭の準備を思い出します。僕も大学生の時には学園祭の実行委員になって、朝から晩まで、時には実習までさぼって学園祭の仕事に没頭したものでした。それは今でも良い思い出になっており、自我、アイデンティティの形成に大いに役立ったと思っています。
何度も言いますが、ピースボートは豪華客船ではありません。東南アジアの人たちをスタッフにし、ボランティアを増やし、食材も安価なものを選んでいるから、若い人たちでも100万円ちょっとあれば世界一周が可能ですし、最上級のベランダ付きのスイートの部屋でも500万円代です。お酒を飲まなければ衣食住は、基本価格に含まれますから、学生たちは4人部屋で2段ベッドに寝泊まりします。部屋の中で過ごすのは、基本的に寝るときだけです。本を読んだり、PCを使って仕事をするのはホテルのロビーにあるソファのような場所が船内にいくらでもありますし、最上階に行けばプールサイドの日光浴をするような長椅子がいくらでも空いているし(写真10)、7階のウッドデッキにも椅子があります。
勉強をしようと思えば、どこでもいくらでもできますが、それは大学でもできること。ピースボートでは様々な催しがありますが、それを運営しているのは学生や20歳代の若者が中心なのです。PAの担当、撮影の担当、司会や、催し物の運営アシスタントなどは無償で若い人たちがやっているのが、ピースボートの安さの一因だと思うようになってきました。環境問題や人種差別、性差別、平和を考える講演も多いので、極右の人たちの一部はピースボートを嫌っている人がいますが、日本人だけでなく韓国、中国語圏の台湾、香港、中国、シンガポールやマレーシアなど多民族の人々とうまく共存共栄しています。日本では中国や韓国のことを毛嫌いしている人がいますが、どこの国の方も、話をしてみるとほんと素敵な人がいっぱいいますよ。ピースボート参加者のほとんどが夫婦か1人旅なのでレストランでは、必ず挨拶をして会話をします。日本の日常生活では社員食堂でもあまり話をしなくなりましたが、ピースボートは学校のようなもので時がたてばたつほど知り合いが多くなります。レストランで働く親しいタイ人のスタッフや部屋の掃除をしてくれるインドネシア人にはファーストネームで呼び合ったりしています。僕はこの雰囲気から楽しかった学生時代を思い出すのです。下船した後も、毎年、定期的に会合を持つ人たちや、船で知り合った人たちがリピーターになることもよくあることだそうです。僕はピースボートは初体験ですが、「何回目ですか?」というのがあいさつ代わりになるくらいリピーターが多いのです。まあ、それくらい、充実した生活を送れる場所なんだなと思います。
学生時代が暗く、思い出があまりない若い人がいれば、一度、ピースボートに乗って、スタッフとしてボランティア活動をやれば、同世代の人たちと苦労を分かち合えることで、きっといい仲間が増えることだと思います。僕も何の思い出もない灰色の生活だった高校生時代と比べ、様々な体験ができて大人になれた大学時代が人生で一番、捨てがたい思い出でしたから。そしてその時の友達が今でも一番の親友ですから。