~運動と食物繊維の摂取とサ道のすすめ~

 熊本大学で働くことになったのが2006年4月、米国留学から帰ってすぐに単身赴任で住んだのが薬学部の斜め向かいの古い宿舎。歩いて1~2分で職場に行ける超便利なところ。だけど仕事が薬剤師と違って大学教員はデスクワークが中心だから、1日に1000歩くらいしか歩かない。しかも昼ご飯は学生たちと一緒に1000kcal以上あるヘビーな昼食を毎日食べていた。人間ドックでの空腹時血糖は105mg/dLと一応正常域だけど、糖尿病予備群になりかけた。この頃に大阪に住んでいる嫁と韓国の済州島に旅行に行って、丘に登った。いつもなら嫁が「あまり早くいかないでよ!」って言われるくらい僕がすたすたと先を歩いていたのに、この時には逆で、先に歩く嫁のあとを追うのがしんどかった。大学の仕事も慣れていないから、というより、もともと頭が良くないから熊大教員としてまともに仕事できるようになるためにはいつまでたっても家に帰れなくなる。結構ハードな毎日で、20200507.png目を覚ますためにブラックコーヒーを何倍も飲んだ。そしてついにはストレス性の胃潰瘍になって、今もPPIがないと胃がむかつくほど弱くなった。そして単身赴任に疲れ果て心も病んできそうだったので、大阪に住んでいた嫁に熊本に来てもらえるよう懇願した。
 単身赴任の約3年後、めでたく夫婦同居となりストレスが解消。うちの嫁はマイナートランキライザーのような人で、僕のストレスをスカベンジしてくれます。そして昼食は嫁が作ってくれる野菜・鶏肉・魚中心のヘルシー弁当。ジムにも通いはじめ、5年前から熊本城マラソンに連続出場。今年は神戸マラソンにエントリー予定。最初は持病の膝痛があったため、歩いて6時間かけて完走(完歩?)だったが、なぜか膝痛が65歳になって全快して、5時間ちょっとで休まず完走できるようになった。若いころは3時間20分前後でいつも走っていたが、5時間かけてゆっくり走るってのは本当に楽しい。練習はジムのトレッドミルで7~20kmを1~3時間かけて歩いたり走ったりと筋トレを週2~3回。ジムに行けない日は歩く距離を伸ばして平均1万歩/日をキープする。週末は熊本では「菊南温泉あがんなっせ」という最高のチムジルバン(岩盤浴)とサウナ・冷水浴(いわゆるサ道*で整える)とともに、10時間以上滞在してたまった未読論文を読み漁る。

「腎不全と薬の使い方Q&A 第2版」2020年4月30日 発売予定です!

●腎不全・透析患者の薬物治療に必要な知識をわかりやすくQ&A形式で解説!
●最新の知見を踏まえ、腎臓病薬物療法のエキスパートが臨床疑問にお答えします

「腎機能低下患者や透析患者に対する薬物療法は難しい」というイメージを持っていませんか?
 本書は、「腎臓」「透析」「薬」をキーワードに、幅広い視点から腎臓病患者の薬物療法を理解できるようQ&A形式でわかりやすくまとめています。腎機能に応じた薬物投与設計、腎機能低下の進行を抑制するための介入、腎臓を傷めない対策、透析性の適切な評価による投与法の適正化や中毒治療への対応、CKD合併症の理解と治療など、薬剤師の能力が発揮できるフィールドはたくさんあります。病院・薬局を問わず、薬剤師として必要不可欠な知識が満載で「腎臓病薬物療法」に対するイメージが変わる1冊です。


 

 学生時代にはお金がなくってというか、親に「お金を送って」って言えない性分だったので、大学の時には暇を見つけてはアルバイトをやっていた。1年の時は18時から24時まで大阪南部合同青果市場で荷物の積み下ろし。休みの日は18時から午前6時まで12時間勤務もしたっけ。ミカンは段ボール箱だからいいけど、リンゴが来ると木箱なので肩が痛い。皮がむけてヒリヒリすることもあったが、市場のおじさんはバンドエイド1枚もくれない。大根が数トントラックで来るとおじさんたちとアルバイトの学生たちが1列に並んで両手に1本ずつ大根をつかんで隣の学生にパスをして市場内に大根の山を築く。それが90~120分は続く。半そでシャツだと大根の葉っぱに負けて両腕が真っ赤になる。とにかく大根とリンゴは嫌だった。その代わり西瓜は重いけど、落とすと割れて売り物にならなくなるから、それをもらって自転車のサドルに縛って下宿に帰ると先輩や同級生たちが大喜びしてくれたっけ。20200415_10.png12時以降に下宿に帰って寝て、朝5時半から8時までその青果市場の隅にある喫茶店で時給300円のウエイターのバイト。チャーハンの作り方と接客業を学ぶことができた。大阪、しかも客はみんな八百屋さんなので「お待ちどうさまでした」ではなく大きな声で「おまちどーさん」と言わされた。睡眠時間は4時間ちょっとなので、大学に入っても講義中は睡魔が襲ってくる。成績はとっても悪かった。200人中190番くらいかな?でも留年は親に迷惑がかかるので絶対に嫌だったから再試にはめっぽう強かった。
 オイルショック前の夏休みまでは帰郷して広島県の呉市に帰ったら、呉市は重工業の町で景気のいいときだったので、日新製鋼で1日12時間労働して5000円もらっていた。当時の物価はJRの初乗りが30円、お好み焼きが100~200円、大阪薬科大学の学費が年間21万円(私学の薬学部で一番安かったから僕でも行けた)だったので、この当時の5000円は破格の大金だった。日新製鋼での仕事は、できた鉄板をコイル状にして大型トラックに載せる前に、そのコイルが元に戻ると大事故になってしまうのを防ぐため、鉄のワイヤーで縛りつけるのが僕の仕事。そんなに疲れる仕事ではなかったので、これは割が良かった。「平田君、今日は人手が足らんけん、連勤してくれんかのお」といわれると喜んでやった。連勤ってのは36時間連続勤務で、今ならブラック企業と言われかねないが15000円の大金を仕事が終わるともらえる。真夜中の2時間だけ休みがもらえるので鉄板でできたコイルの中でヘルメットをかぶったまま丸まって寝た。これで貯めた10万円はステレオと冷蔵庫を買うとほぼなくなった。このころの家電製品は高かったのだ。2年の時にはオイルショックでトイレットペーパーはなくなるわ、洗剤は売り切れるわの昭和で有名な大騒ぎがあり、物価はうなぎのぼりだけど景気は冷え込んだ。2回生になるとたった1年しかたっていないのに、呉では仕事が何もなくなった。仕方なく呉駅近くの職安の前で待って土方の仕事にありついた。でも夏休みの猛暑時にドリルだけならまだしもツルハシやシャベルを使っての炎天下で手作業の穴掘りの土方仕事はきつかった。1日5000円だが、2日は休まないと体力が回復しない。
 仕方なく大阪に戻って京屋マネキン(いまはKYOYAというおしゃれな会社になっているみたい)で三宮のデパートや名張のダイエーなどの模様替えを閉店から朝までかけてやったり、お歳暮シーズンには薬科大学前の運送屋の運転助手もやった。ラジオから流れるイルカさんの「なごり雪」を助手席で聞いたのを思い出す。ガスタンクとその蓋の溶接がうまくいっているかどうかをレントゲンでチェックする仕事は被曝する危険性があるので高給だった。20200415_20.pngこのレントゲンの職場は門真にあって、いつもは本職の人の助手として車の乗っていろんな溶接工場に行くのだが、ある日、「おう、平田君、今日は玉出まで出張してくれへんか?」といわれ、地下鉄に乗って玉出まで行くのだが、作業服に安全靴、ヘルメット姿を同級生に見つかると恥ずかしいので、ずっと下を向いていたっけ。1,2年生の時にやったアルバイトの種類は約30種類。ようやく3年生になってから家庭教師という楽で結構稼ぎが良い仕事が見つかった。教えるのはうまかったので中学3年生を教えて、望みの高校に受かったので、高1になってからも続けさせてもらった。週1回2時間で1月12000円、時給としては最高で、しかも安定している。これは大学を卒業するまで続けさせてもらった。
 今でも青果市場や日新製鋼や真夏の土方のことを思い出す。みんなが寝ている真夜中に「なんで俺だけ、こんなに働かなくっちゃいけないんだろう」と思うと情けなくって泣きそうになったことを(実際には絶対に泣かなかったけどね)。でも今、締め切り地獄になっても、あきらめず、めげずに30冊近くの本を書き続けることができたのは、このつらい経験(20歳代のころマラソンをやったのもよい経験だったのかもしれない)のおかげで神経がかなり太くなったからじゃないかなと思っている。以前に偉い人が言っていた。「学生は勉強をするのが仕事。アルバイトなんかするもんじゃない。勉強に打ち込め!」と。僕は他人の言動に影響を受けやすい。アルバイトする代わりに大学の図書館に入り浸って勉強していたら、落ちこぼれることなく、もう少し早めに芽が出る薬剤師になれたかもしれない。それもすごくわかるが、そうできたのなら誰も苦労はしない。この昭和48年から52年の4年間は親に甘えるな!死ぬまで働け!」という平成の子には理解できない、昭和の美徳がもてはやされる時代だったんだ。

ごあいさつ

 このたび平田は14年間の長きにわたりお世話になりました熊本大学薬学部を65歳となったため定年退職し4月以降、I&H株式会社(阪神調剤グループ)の学術顧問として兵庫県芦屋市の本社で働くことになりました。
 それに伴い、3月31日をもちまして熊本大学臨床薬理学分野のホームページを閉じ、新たにホームページとして「平田純生~腎と薬の徒然日記~」たち上げることになりました。今後は熊本から神戸市灘区に住み、京阪神に拠点を置きますが、長い間皆様方からご教導いただきましたことを生かし、新たな分野での教育・研修・執筆などに全力で努力精進する所在でございますので、なにとぞ今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。 
 熊本の皆様、九州の皆様、これからも御用とあらば、平田は何度でも戻ってきますので、これからも相変わらずよろしくお願いいたします。略儀ではありますが、御礼かたがたご挨拶申し上げます。メールアドレスは、当面、熊大のものが使える予定です(hirata@kumamoto-u.ac.jp)。

勤務先:I&H株式会社 調剤薬局事業支援本部 学術研修部 学術課
勤務先住所:〒659-0066 兵庫県芦屋市大桝町1番18号

TEL(0797) 35-6216 FAX(0797) 32-6336
業務用携帯:080-6195-7767
メール:hirata@kumamoto-u.ac.jp
またはhirata_s@i-h-inc.co.jp 

氏名 平田 純生(ひらたすみお)

【学歴】 
1954年9月 広島県呉市生まれ 
1977年3月 大阪薬科大学(現大阪医科薬科大学)薬学部薬学科 卒業
2004年9月 九州大学博士課程において薬学博士取得

【職歴】
1977年4月   白鷺病院(大阪市)に入職
1987年4月   白鷺病院薬剤科長
2001年4月   白鷺病院研究室次長
2005年10月 オレゴン州立大学薬学部客員教授
2006年4月   熊本大学薬学部臨床薬理学分野教授
2008年4月   附属育薬フロンティアセンター長兼任
2019年4月   熊本大学大学院生命科学研究部・薬学部臨床薬理学分野教授
2020年4月 I&H株式会社(阪神調剤グループ)学術研修部、
      ブログ「平田の薬剤師塾」塾長、 熊本大学非常勤講師、
      武庫川女子大学非常勤講師

【学会・研究会】
日本腎臓病薬物療法学会監事(腎臓病薬物療法専門薬剤師)
日本腎臓財団理事
日本医療薬学会代議員(日本医療薬学会指導薬剤師)
日本化学療法学会評議員
医薬品安全性指導者・医薬品安全性専門薬剤師
日本腎臓学会会員など

【診療ガイドライン作成委員】
日本透析医学会: 血液透析患者における心血管合併症の評価と治療に関するガイドライン2011作成委員
日本TDM学会・日本循環器学会: 循環器薬の薬物血中濃度モニタリングに関するガイドライン2015作成委員
日本化学療法学会: 抗菌薬TDMガイドライン2016作成委員
日本腎臓学会: 薬剤性腎障害診療ガイドライン2016作成委員
日本腎臓学会, 他: がん薬物療法時の腎障害診療ガイドライン2022統括委員

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学 歴(黒字は学歴以外)

1954年9月
広島県呉市生まれ  

1960年4月
呉宮原小学校入学。4年生まで3段階評価の「よい」を1回ももらったことがなかったくらい理解力が悪かった。運動会のかけっこで6人中4番が最高位と運動は何をやってもダメだった。東宝の怪獣映画にのめりこむ。

1967年4月
呉宮原中学校入学、初めての中間試験で200人中130位。努力はしてたので卒業時には30位以内に入り、商業高校か工業高校に行くつもりだったが、普通科で憧れの呉宮原高等学校に受験できただけでうれしかった。クラスマッチはいつも運動神経のいい子だけが出てたのに、全員出場と決まっていやいやながら出場したが、「平田のせいで負けた」と言われ、生きるのが嫌になった。日本人は多様性を認めないんだ、みんなよりも体力が劣るだけでつまはじきされることを知りふさぎ込む。いじめられっ子だったので、強さに憧れ、プロレスのアントニオ猪木にのめりこむ。

1970年4月
呉宮原高等学校入学。運動神経が鈍く、自分に自信がないので女子とは全く話ができない暗い生活の毎日で、思い出がほとんどない。

1973年4月
大阪薬科大学入学。古美術研究部に入部し、山崎勝弘(いわき明星大学教授になりました)・永田修一(長崎国際大学教授になりました)・土屋節夫(東北医科薬科大学教授になりました)1学年200人中、山崎が170位、土屋が180位、平田が190位、永田が200位の成績[予想だがほぼ間違いない]と出会う。1人暮らしになって少しずつ女子アレルギーを克服し、3年生になって自分の意見を持てるようになった。3年生の時に、3年連続最下位だった広島カープが奇跡の初優勝。勇気と希望をもらう。4年間に30以上の職種のアルバイトを経験、地下鉄に乗って作業着にヘルメット、安全靴姿を友人に見られるのが嫌でずっと下を向いていた。4年になってからビートルズ、かぐや姫の影響からギターを教えてもらい、ギターの練習にのめりこむ。

1977年3月
大阪薬科大学(現大阪医科薬科大医学)薬学部薬学科 卒業
(成績はおそらく200人中190番程度だったが国試はおそらく高得点で合格)

 

職 歴(黒字は職歴以外)

1977年4月
 
医師3名、30床、職員60名(当時)の透析施設・白鷺病院(大阪市)に入職 

1978年
臨床研究「尿毒症体液成分のchromatographyによる分析」を開始。毎日英語論文を夢中で訳していたら、英語論文が辞書なしで読めるようになった。

1979年
9月の25歳の誕生日にマーチンD-28(定価40万円)を購入。ティアック社の4チャンネルオープンリールテープレコーダー(約30万円)も購入し、ギター、バンジョー、マンドリン、ベースなどの多重録音の毎日。寮の自室がギターと録音機器だらけになる。11月4日の日本シリーズ第7戦で「江夏の21球」を大阪球場3塁側で観戦。このころ草野球にのめりこみ、阿倍野バッティングセンターで1日300球を打ち込む。

1980年
臨床研究「透析中のカテコラミン濃度の変化」を開始。某旧帝大教授から「博士論文になる」と評価されたが、指導者がいなかったため、日本語論文にすらできず。

1982年
マラソンにのめりこみ、陸連に登録して中日福井マラソンで3時間20分を切る(陸連公認記録)。楽器とレコード以外の支出を極度に切り詰めた極貧生活で1年に100万円を貯金して400万円の自己資金を貯めて住之江区南港に4LDKの新築マンションを購入。

1983年
病院長の勧めでボランティアを一緒にやっていた看護師と結婚。披露宴をする金がなく3万円で住吉大社で質素に挙式。結婚後わずか半年で翌年長男誕生、妻が神様のように見えた。

1985年4月
調剤しかできない薬剤師をやめようと小学校の教員資格認定試験を受験したが不合格。生活のため、やむなく薬剤師を継続。

1987年4月
白鷺病院薬剤科長

1988年
臨床研究「血液透析患者の血清微量元素濃度」を開始。透析患者の血清セレン濃度についての英語論文を独力でまとめたがrejectされる。このころ油絵、パステル画にのめりこむ。

1991年
住之江区図書館の英会話教室で22歳の美人教師シャロン先生(オーストラリア人の教える英会話にのめりこむ。英検2級を取得。

1992年
ますます英会話にのめり込み英検準1級を取得。

1993年
シャロン先生帰国により、英国人男性が新教師になったが、英会話熱が急激に冷め、英会話をやめる。

1994年4月
薬剤管理指導業務のベッド数制限が撤廃され、100床以下の白鷺病院でも病棟活動ができるようになる。田中一彦先生、上野和行先生という2人のメンターに出会い、20種類近くの薬物のTDMを開始。ドラッグフォーラムオーサカというユニークな勉強会に参加する。40歳にして薬学系の学会に初参加し、平田・和泉智先生のコンビを学会で売り込み、薬剤師という仕事にのめりこみはじめる

1998年4月
月間薬事に初の連載「透析と薬物療法〜投与設計へのアプローチ」の開始。

1998年9月
月間薬事の最後の連載「抗がん薬」執筆中に不明熱により65kgの体重が57kgまで減少し入院。原発性胆汁性胆管炎か閉塞性黄疸が疑われ、一時は死を覚悟したが、全く悲壮感を感じず、深夜に病室を抜け出して薬局で原稿を書いていたらナースに見つかり、病室に連れ戻される。

1999年4月
初の図書「透析患者への投薬ガイドブック」を刊行。以後約35冊の編集著書を出版。2年越しで他病院の天才・古久保拓先生(住民の数割が古久保姓という和歌山県龍神村の出身)を口説いて、白鷺病院に入職させる。 

1999年12月
木村健先生と出会い、広島県立呉宮原高校の後輩とわかる(前田頼伸先生も後輩で偏差値はあまり高くないが宮原高校の薬剤師は頑張っている)。木村先生と関西腎と薬剤研究会を結成し2年間会長を務める。これ以降、木村先生は僕のパートナー件、監視係となる。仕事が楽しくて寝袋で病院に泊まるようになる。翌朝、出勤してきた古久保拓に「巨大な青虫」と言われる。

2001年4月
白鷺病院研究室次長。部屋をもらったので折り畳みベッドを購入し、ほぼ病院で暮らす。

2004年9月
2001年に九州大学・澤田康文教授に強引に誘われ、博士課程において薬学博士取得
このころ、薬学部学生だった辻本雅之先生・浦田基樹先生らを修士課程学生として指導。浦田は和歌山県田辺高校出身で、古久保の後輩だが「かわいがってもらった経験はない」らしい。

2005年9月
白鷺病院を退職し国費留学によりオレゴン州立大学薬学部客員教授。Munar先生のお世話になる。イラン系アメリカ人で実力者の腎専門薬剤師Dr. Ali Olyaeiと意気投合する。

2006年4月
熊本大学薬学部臨床薬理学分野教授
。当時、宮村重幸先生と仲良くなり、当時大学院生だった近藤悠希先生と出会い腎臓に興味を持たせる。薬剤師も医師も自由に参加できる英語論文を読む抄読会を500回開催

2007年
日本腎と薬剤研究会を結成、竹内裕紀先生たちと必然的に出会い、初代会長に就任。
研究室対抗ソフトボール大会では頑張るものの、運動不足がたたり糖尿病になりかける。

2008年4月
附属育薬フロンティアセンター長兼任 育薬フロンティアセミナーを85回開催。

2012年
日本腎臓病薬物療法学会を結成、初代理事長に就任し、2020年9月まで務める。

2014年5月
尊敬する宇野勝次先生に誘われ、日本薬品安全性学会副理事長に就任(2021年大会まで)

2019年4月
熊本大学大学院生命科学研究部・薬学部臨床薬理学分野教授(センター統合のため)

2020年2月
大雨の中、熊本城マラソン5年連続完走。この後、コロナ禍。

2020年4月
熊本大学を定年退職し神戸に移住。浜松の伊藤譲先生に誘われ芦屋のI&H株式会社(阪神調剤グループ)学術研修部に転職、松山賢治先生と同僚になる。熊本大学薬学部客員教授(2021年9月末まで)・非常勤講師

2021年4月
念願の「基礎から学ぶ薬剤師塾」を芦屋で再開。300名まで参加可能な一般向けと少人数制のI&H株式会社社員向けをそれぞれ月に1回ずつ開催。今も薬剤師という仕事にのめりこんでおり、ブログ「平田の薬剤師塾」塾長を名乗り、現在に至る。

育薬に活用できるデータベースのメイン画面です。
各画面より、関係データの最新版PDFがダウンロードできます。
ご自由にご活用下さい。

 

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「1.腎不全・検査値」一画面

「2.薬物動態・TDM」一覧画面

「3.薬効別分類表」一覧画面

「4.薬剤性腎障害」一覧画面

「5.専門薬剤師の実態」一覧画面

「6.薬物療法Q&A」一覧画面

※免責事項について

 

プロフィール

平田純生
平田 純生
Hirata Sumio

趣味は嫁との旅行(都市よりも自然)、映画(泣けるドラマ)、マラソン 、サウナ、ギター
音楽鑑賞(ビートルズ、サイモンとガーファンクル、ジャンゴ・ラインハルト、風、かぐや姫、ナターシャセブン、沢田聖子)
プロ野球観戦(家族みんな広島カープ)。
それと腎臓と薬に夢中です(趣味だと思えば何も辛くなくなります)

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